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木曽義仲・・平家滅亡の前奏曲

2023-12-31 14:35:20 | 歴史


木曽義仲は、本名、源義仲。(1154~1184)30歳。
つまり彼は源氏の武将なのです。
長野県の木曽地方に育ったために、木曽義仲と言われます。

若い頃、木曽方面をドライブしていた私は、
路肩に「木曽義仲生誕の地」という看板を見かけ、
(はて?木曽義仲、聞いた事はあるけど、誰なんだろう?)
と思った事から、歴史に興味を持つキッカケになったという武将です。
鎌倉幕府を開いた、源頼朝、源義経(牛若丸)とは従兄弟にあたります。

義仲は以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)によって、
平家追討を掲げ挙兵します。
(令旨)とは、皇太子などの命令を伝える文書です。
木曽義仲の前半生に関する史料はほとんどありません。

打倒平家を目指す義仲は、
1181年6月、長野市の横田河原の戦いに勝利しました。
しかし、その後の火打城の戦いでは平家に負けてしまいました。

さて、年が変わって1183年6月。
石川県の倶利伽羅峠で、世に名高い、倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いが起こります。



砺波山に陣取る平家軍が寝静まった深夜、
背後に回った義仲軍は400~500頭の牛の角に松明をくくり付け、
平家陣目指して突撃させたのです。
寝込みを襲われ、真っ暗な山中を驚いた兵たちは逃げ惑うばかり。
逃げ惑った先に在ったのは倶利伽羅峠の断崖絶壁でした。
この戦いで10万の平家軍は大半を失い京へと退却して行きました。

勝利に乗じた木曽義仲が京都に上洛したのは1ヵ月後でした。
源氏である木曽義仲軍が攻め入って来るとの恐怖におびえた、
平家一門は、遂に京の都を捨て、西国へと落ちのびて行きました。
有名な「平家の都落ち」です。
これを最後に、平家が京の地を踏む事は、二度とありませんでした。

京都に着いた義仲軍は、京都の公家、貴族の生活様式などまるで知らず、
粗野で武骨の、木曽の山猿と言われる始末。
彼等の兵隊たちの食糧事情などの問題などあって、
次第に京都人からうとまれる存在になっていきました。



鎌倉の源頼朝の指示などあり、源義経が義仲打倒に京都を目指して進軍してきます。
義仲は徐々に迫りくる鎌倉勢に、恐れおののきます。
木曽義仲はいよいよ最期を悟り、幼い頃から苦楽を共にしてきた、
巴御前と共に覚悟を決めます。
見方の離反などあり宇治川の合戦に敗れた義仲は、遂に討ち死してしまいます。
それは、壇ノ浦で平家が滅亡する1年2か月前の事です。

いよいよ、平家の滅亡は時間の問題となっていったのでした。

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