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終わった時が始まりだった・・源頼朝

2024-02-10 07:18:38 | 歴史
源頼朝(みなもと、よりとも)は鎌倉幕府を開いた武将です。
1147年~1199年(52歳)



頼朝のお爺さんは、為朝(ためよし)といいます。
彼は保元の乱(1156年・後白河天皇と崇徳上皇が対立)で、
崇徳上皇側について敗北し、我が息子である、
源義朝(よしとも)の手で処刑されます。(60歳)

父、為朝を処刑した、頼朝の父親・源義朝は、
平治の乱(1159年)平清盛と対立し、それに敗れ処刑されます。(37歳)
義朝の3男として生まれた頼朝(当時13歳)は、本来、死刑となる筈でした。
しかし、それに待ったをかけた女性がいました。
平清盛の継母(清盛の父親の妻)に当たる、池禅尼(当時55歳)です。
彼女は早世した(26歳)次男、家盛に瓜二つだと、清盛に嘆願し、
後に平家滅亡の根幹となる源頼朝を処刑せずに伊豆に流したのです。
この事が後に大変な事態を招くとは、あの悲劇を招くとは・・・

13歳で伊豆の地に流刑となった頼朝。
彼は幼心に「本来なら死刑になっていた自分の人生ははもう終わった」と思ったでしょう。
しかし、終わったと思った時から、彼の人生は大きく始まっていったのです。

京都では平清盛の平家一族が我が世の春を謳歌し、
平家に非ずば人に非ずと、やりたい放題でした。
あまりの傍若無人に朝廷からも不平不満の声が絶えませんでした。
そういった声は、一度は地に堕ちた源氏に、打倒平家を望む人々からの期待がかかります。
今では遠い関東の地に追いやられた源氏ですが、
源というブランド名は、やはり他の家柄を圧倒する名門でした。
平家一門に愛想を尽かした人々の期待は、源頼朝の双肩にかかってきたのです。
遂に頼朝は腰を上げざるを得なくなりました。

それからの源平合戦は良く知られる戦いです。
倶利伽羅峠、一の谷、屋島、壇ノ浦。
そして平家断絶の後は、恐ろしい平家の残党狩り。
頼朝は、温情によって生き永らえた自分の事が、生きた見本であるので、
平家の血は一滴たりとも絶やさずにおくものかと死に物狂いで平家を探し出します。
見つけたが最後、例え女子であろうが幼子であろうが、徹底的に殺します。
生かしておいたら、子供が自分に向かって牙を剥いてくるのは、
自分自身がそうだったのですから。

そして平家滅亡後の頼朝は、鎌倉幕府を興します。
1192年に鎌倉幕府が始まります。
しかし、始まったばかりの1199年に頼朝は52歳の若さで亡くなってしまいました。

自分の人生は終わったと思った時が、始まりで、
始まったと思った時が、終わりだったなんて、実に皮肉ですね。


平家物語で、何が本当か?どれが真実か?なんて、
今となっては解りようがありません。
みな琵琶法師による語りから、多分この辺が真実だろうなと、
何もかもが憶測の域を出ないのです。
とは言っても、その栄枯盛衰の様は、あまりにも悲劇的で、
私達の胸を打ち、心を揺さぶるのです。

あれは一体なんだったのだろう?
「ただ春の夜の夢のごとし」


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