河童の歌声

歌声喫茶&キャンプ&ハイキング&写真&艦船

アントニオ猪木

2022-06-01 09:43:13 | 格闘技
BRING IT ON!! ♪XXX、ボンバイエ♪


あの、アントニオ猪木の現状が・・・



私はかつて(今はそうでもない)大のプロレスファンでした。
その中心に存在していたのは、アントニオ猪木です。
猪木こそプロレスであり、プロレスの世界は猪木を軸にして動いていました。
どのレスラーを見るにしても、猪木から見た相手はだったのです。
例えばジャイアント馬場。
彼はどういうレスラーであるかの基準は、猪木から見た馬場といった具合に。

その猪木がまさかこんな姿になってしまっている事に、
いちファンとして衝撃を受けざるを得ません。



あの闘志あふれる圧倒的な強さを誇った全盛期。
身長190センチ。体重105キロ。
レスラーとしては、やや細身ではありますが、強かった!

日本人レスラーとして最も強かった男は・・?
という定義によく言われるのは、



ジャンボ鶴田。
しかし彼は2000年に49歳の若さで病死してしまいました。
身長196センチ。体重127キロの大型レスラーでした。
彼は私の友人が高校の応援団団長だった山梨日川高校3年生の時の下級生で、
下駄ばきで登校し、「お前は何で下駄ばきなんだ?」と言ったら、
「履ける靴が無いんです」と答えたそうで、
そういった事からも彼を応援したかったのですが、
猪木に比べると殺気が感じられずに、私は彼の強さを見誤ってしまった様です。

そうなんです、小型のレスラーであり、後にレフリーなった山本小鉄。
彼が言うには「大きいレスラーなんて怖くない、
本当に恐いのは相手を本気で殺しにかかってくるレスラーだ」そうです。
猪木がまさにそうなんです、ギブアップしない相手の腕をへし折った事があります。



青木真也、彼も猪木と同じでギブアップしない相手の腕を折りました。



ジェラルド・ゴルドー。
オランダの喧嘩屋と言われたこの男は、相手の体を徹底的に破壊する事を信条にするみたいで、
違反行為であるサミングを止めずに日本人レスラーを失明させました。
ジャンボ鶴田はこういった行為はきっと出来ない。私はそう見ました。
彼にはそういった甘い部分が感じられて、強さを感じるには至らなかったのです。

猪木の病気は「心アミロイドーミス」という難病で、
100万人に6人くらいの珍しい病気だそうです。
肝臓で作られる「トランスサイレチン」というたんぱく質が変形し、
臓器にアミロイドという物質が沈着し、障害を引き起こす病気。
アミロイドが心臓に沈着すると心臓のポンプ機能が低下し、
心不全になり息切れや、むくみなどの症状が強くなり、
「心アミロイドーシス」と呼ばれます。
元、楽天監督の田尾安志氏(68)が同じ病気だそうです。

アントニオ猪木(猪木寛至)
1943年(昭和18年)横浜市鶴見生まれ、79歳。
5歳の時に父親が亡くなり、13歳の時に母、祖父、兄弟たちとブラジルに渡る。
ブラジルでは家族たちと畑を耕す生活をしていました。
その頃、陸上競技(砲丸投げ)の選手として優勝するなど活躍。
さの際、ブラジル遠征中の力道山の目に留まる。
1960年4月(17歳)力道山にスカウトされて日本に帰国。
日本プロレス入団。
1960年9月、ジャイアント馬場と同日の9月30日、
本名の猪木寛至として、大木金太郎相手にデビュー)敗戦。

1962年、リングネームをアントニオ猪木に改名。



これは怪力で有名だった豊登が命名したそうです。



アントニオは、イタリア系アルゼンチン人で大活躍していた、
アントニオ・ロッカから採った名前だと言われています。



猪木が新人時代は、力道山は馬場に対しては何も言わず、
猪木に対してはそれと反対で徹底的にイジメ抜いた事は広く知られいます。
力道山が朝鮮人でありながら、日本人の英雄としてスターになった事は、
当時はあまり知られておらず、その辺りの反動だったのか?
あるいはよく言われる様に、力道山はある種の性格破綻者だったのか、謎ですが。
その力道山は1963年にヤクザに刺殺されてしまいます。

1964年から1966年までアメリカ修行に出かけます。
猪木が会社に要求していたジャイアント馬場との対戦が受け入れられなかったり、
会社(日本プロレス)との度重なる確執から1971年に追放処分を受けます。
その年の11月、女優の倍賞美津子と結婚しました。
猪木は生涯に4度の結婚をしています。

1972年、新日本プロレスを立ち上げます。
ストロング小林との日本人大物対決。
「タイガー、ジェット、シン」「ハルク、ホーガン」「スタン、ハンセン」
などを外国人エースとして育成し、
力道山亡き後のプロレス黄金時代を築きました。

猪木は「プロレスこそ全ての格闘技の頂点である」という、
ストロングスタイルを標榜。
その後のプロレスにに大きな影響を与えます。





空手家、ウィリー、ウィリアムス戦。
ボクサー、モハメド、アリ戦などを行い、
格闘技世界一決定戦などで、後年の総合格闘技の礎を築きました。



1998年(55歳)
当時32歳の脂の乗り切った格闘家、ドン、フライを相手に引退試合を行い勝利しました。

1989年、スポーツ平和党を結成。
参議院選に当選します。

1961年初対戦以来ジャイアント馬場とは生涯に16度対戦しましたが、
遂に1度も勝てませんでした。
シングル戦は、612勝、41敗。勝率は93%という凄さでした。
ですから馬場に勝てなかったというのは、単に相性の悪さなんでしょうね。

猪木の決め技というと、
何と言ってもコブラツイスト。そこから進化した卍(まんじ)固め。延髄斬り。
バックドロップ。ジャーマンスープレックスホールド(原爆固め)

「猪木ボンバイエ」のボンバイエというのは、
アフリカ、コンゴ地方の、ボマ、イェが訛ったもので、
直訳は「彼を殺せ」「やっちまえ」の意味だそうです。
何でコンゴなのかは、ググったのですが、何処かへ無くなってしまいました。



猪木をここまで有名にした立役者に、古館伊知郎氏がいます。
大のプロレスファンでもある古館氏の、言葉の魔術師ぶり・・・
「戦いの大海原へ」大巨人アンドレ、ザ、ジャイアントをして、
「一人民族大移動」「人間山脈」・・・
あの魔術言葉の羅列がプロレスのリングに飛び交ったのですから、
プロレスファンならずとも惹き寄せられてしまいました。

190センチだった巨体は、2002年当時で182センチくらいとなってしまい、
現在は既に180センチを切っているでしょうし、
105キロだった体重は恐らく80キロあるか無しか・・
数字でそれらを見ると、あれほど偉大だった猪木がと、悲しくなります。
2019年に現在の病気、アミロイドーシスを発症。



でも、せめてもう一度、
「猪木ダーッ!」の雄叫びを見たいと願っています。
猪木さん頑張ってください。



コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« パソコン選びが楽しく思った時代 | トップ | 日本にも氷河があった »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

格闘技」カテゴリの最新記事