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平家、落人伝説

2024-02-17 16:26:49 | 歴史
1185年、関門海峡の壇ノ浦で平家は滅亡しました。
平家に非ずば人に非ず、有頂天の極みはわずか19年間のおごりでした。
「ただ春の夜の夢のごとし」
たったそれだけの短い言葉に、どれほどの悲しみが詰まっているか・・・

一族郎党ことごとく無く(亡く)なっていく憐れさは、まさに悲劇です。
全滅と言っても必ず生き残りはいます。
故に平家の落人伝説は数多く残っているのです。
天皇だった、平清盛の孫安徳天皇はまだ7歳でした。
清盛の妻だった時子(二位尼)つまり祖母に抱かれて海へ身を投げます。
「お婆様、何処に行くのですか?」
「海の下にも都はあります」
何と悲しい言葉でしょうか。

周囲を見渡すと、平家の名のある武将たちは海へと身を投げていきます。
もう平家は負けだ、終わりだと己に言い聞かせ身を投げる。
7歳の子供には、意味が理解できないのは当たり前。
その悲しみあわれさが、多くの「安徳天皇生存説」となって数多く残っているのです。

「隠田(おんでん)百姓村」というのがあります。
戦国時代から江戸時代にかけて隠田百姓村が数多く生まれましたが、
平家の落人たちが開発したと言われている平家谷もそのひとつです。
その数は全国で100を超えていると言われています。

栃木の湯西川、飛騨の白川郷、四国の祖谷、九州の椎葉村、五家荘。
そういった名だたる平家落人部落。
東京にもあるのです、日野市、七生南平(豊田駅の近くです)
信じられないのは、平家滅亡の地、壇ノ浦から数キロの所にもあるのです。

隠田というのは年貢の徴収を免れる為に密かに開拓した畑の事で、
為政者から見れば脱税にあたり厳しく取り締まられたのです。
という事は為政者たちが、おいそれと近づけない奥地だったり、
厳しい地形の場所に存在したのです。

平家の残党たちは奥深い山奥(上流)で隠れて生きていました。
下流に住む人達は、上流に人が住んでいるとは知りませんでした。
しかしある時、上流からお椀といった食器が流れてきて、その存在を知ったのです。
平家の落人は、川の下流から上流へと登っていったのではなく、
反対側から山を越えて谷の一番奥へ住みついたのでしょう。

そして川下の村々が農業を生業にしているのに、
川上では、まるで違った狩りや林業で生計を立てている者が多かったのです。
平家落人と言われる人々の生活様式は、ほとんど周囲から孤立しているのに、
平家谷同士の間には若干の共通性があり、
場所が離れているのに意外にも親密があったりするのです。

源頼朝が、己の人生は(源氏)という血の存続であり、
その血が平家を滅亡へと追い込んだのですから、
源氏が完璧な天下人になる為には、平家の血を絶対に根絶やしにしなければなりません。
ですから頼朝の、平家の残党狩りは徹底的に、執念深く行われました。
日本の最高権力者が、日本中に力の限り平家断絶に躍起となるのですから、
見つかったが最後の恐ろしさに平家落人たちは、蛇に睨まれたカエル状態。
死に物狂いで逃げていったのです。

誰一人助けてくれる人などいません。
自分達、数少ない生き残りで助け合い、支え合って生きるしかないのです。
平家の残党を見つけた者には源氏から褒章金が出ます。
貧しい人々は、褒賞金目当てで、顔立ちが良かったり、美しい言葉を話している若者など見つけると、
「こいつは平家だ」と訴え出ます。
そうなった人に逃げ道などなく、すぐに殺されてしまうのです。
平家の残党は必死になって、山奥へと山奥へと逃げて行きました。

その光景を思うと、いくらいい気になり過ぎた一族とは言っても、
可哀想に、あわれに思います。
もうこのくらいで勘弁してやったら、と思っても、
頼朝はそんな甘い事など認める訳がありません。
恐かったでしょうね。どれほど「誰か助けて~」っと叫びたかったでしょうね。



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