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伝説のスター赤木圭一郎

2021-09-15 06:34:46 | 映画






その昔、赤木圭一郎というスターがいました。

1939年(昭和14年)5月8日、
東京の歯科医の家庭に生まれ、鎌倉に疎開。
1948年(昭和23年)藤沢に転居。
地元の鵠沼(くげぬま)中学から、鎌倉高校。大学は成城大学。

私も藤沢市鵠沼に、1961年から1968年くらいだったか、
7年間住んでいましたが、
私の家から鵠沼中学までは500メートルくらいでした。
ひょっとして、何処かで赤木圭一郎とすれ違っていたのかも・・

1958年(昭和33年・19歳)日活第四期ニューフェースとして入社。



赤木圭一郎は愛称をトニーと呼ばれていました。
それはハリウッドスターの、トニー・カーチスにどことなく似ている、
という事から付けられたそうです。



1958年(昭和34年)「素っ裸の年齢」で初主演。
その後「拳銃無宿帖」シリーズなど、
20本以上の無国籍アクション映画に主演し、
(タフガイ)石原裕次郎、(マイトガイ)小林旭に続く、
第三の男と呼ばれました。



またその風貌から和製ジェームス・ディーンなどと言われました。
ジェームス・ディーンは赤木圭一郎に先立つ事5年前に、
愛車ポルシェにより24歳の若さで事故死しています。



1961年(昭和36年)2月14日、12時20分頃。
裕次郎の怪我により代役となって臨んだ映画「激流に生きる男」の、
撮影中の昼休みの遊び時間に撮影所内でゴーカートを運転中、
アクセルとブレーキを踏み違えて時速60キロのスピードで、
倉庫の鉄扉に激突。



意識不明となり救急車で狛江の慈恵医大病院に搬送されました。
一時は意識が戻ったのですが2月20日になって再び昏睡状態になり、
翌21日午前7時50分に死去。まだ21歳の若さでした。



この事故はよく覚えています。



事故直前、子役だった江木俊夫は赤木からゴーカートに誘われたのですが、
小林旭から「危ないから一緒にメシでも食おう」と呼ばれ、
食事中に大きな音がして事故を知ったそうです。



またゴーカートに乗る順番をジャンケンで決め、
赤木の次に乗るのは、かまやつひろしだったそうです。

事故現場には宍戸錠や長門裕之などもいました。



吉永小百合は赤木圭一郎を憧れの先輩と慕っていました。
加山雄三は赤木圭一郎の3才年上ですが、
雑誌の取材で一緒になり、同年代、湘南育ちという事で親しかったそうです。
加山雄三の作曲した歌「夕映えのスクリーン」は、
赤木圭一郎をイメージして作った歌という事です。



彼の墓所は静岡県・富士宮市にありますが、
その碑が鎌倉の長勝寺に在ります。
以前、ハイキングクラブで鎌倉・逗子方面を歩いた時に、
その碑を見た事がありました。

赤木圭一郎死すのニュースが飛び込んできた時、
私の姉は泣いていました。
あの頃の乙女心をしっかりと掴んでいたスターでしたね。
30代半ばになってから通っていた中国語教室の仲間の女性も、
彼女は私と同じ年齢でしたが、
「赤木圭一郎、、だ~い好き」などと、いつまでも忘れられないみたいでした。



当時の日活スター5人の写真を見ると、
石原裕次郎、52歳没。
小林旭、現在84歳
赤木圭一郎、21歳没。
和田浩治、 42歳没。
宍戸錠、  86歳没。
小林旭と宍戸錠は長命で、後は短命でしたね。

赤木圭一郎は、その死があまりにも突然であり、若過ぎました。
これから人気がどんどん上がって行くであろう、その矢先だったが為に、
良く似た状況で逝ったジェームスディーンと並び比較され、
いつまでも語り続けられる永遠のスター(星)になりました。
今もし生きていたら82歳でしたね・・・



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