
2024年2月2日に「佐田啓二、終焉の地」というブログを書きましたが、
私は、佐田啓二というと、何故か市川雷蔵を思い浮かべるのです。
同時代に活躍した2人とはいえ、なぜなんでしょう?
二人とも大スターでありながら30代という若い時期に亡くなってしまったという、
共通性なのかも知れません。
佐田啓二は1926年生まれで年上者であり、
市川雷蔵は1931年生まれと佐田啓二より5歳下でした。

市川雷蔵は1931年(昭和6年)8月29日に、京都で生まれ、
出生時の名は亀崎章男といいました。
生後6か月の時に伯父で歌舞伎役者の三代目、市川九團次の養子になり、
本名を竹内嘉男と改名します。
雷蔵が養子に出された経緯は、
雷蔵の父は母が雷蔵を妊娠中に陸軍幹部候補生として奈良に移り、
母は生家に留まりました。
しかし、母は父の親族のイジメに遭い、父に助けを求めたのですが無視された為、
たまりかねて実家に戻って雷蔵を出産します。
その頃には雷蔵の両親の仲は決裂しており、母は1人で雷蔵を育てるつもりでしたが、
父の義兄である三代目九團次が雷蔵を養子として引き取ると申し出たのです。
母は最初は断ったのですが最終的にはこれに同意。
雷蔵が九團次の養子である事を知ったのは16歳の時。
実母との対面を果たしたのは30歳を過ぎてからでした。
雷蔵も歌舞伎役者になるべく勉強に励むのですが、父親は門弟あがりの役者であり、
権門(社会的特権)の出ではない脇役専門の役者に過ぎず、
雷蔵はその息子である事に悩み続けるのでした。

演出家の武智鉄二は雷蔵の役者としての資質を高く評価したのですが、
世襲制の道の厳しい歌舞伎の世界では出世は難しく、
武智鉄二は、子供が無かった三代目市川壽海が雷蔵を養子にしたいという、
意向を持っている事を知ると関係者に働きかけ、これをまとめたのでした。
(三代目、市川壽海については雷蔵の実父ではないかといった噂があったそうです)
(私は何の世界でも、こういった世襲制は好きになれません)
1951年に養子になった雷蔵でしたが、父親の方針などあって、
さして良い役は与えられず楽屋には大部屋があてがわれるという扱いでした。
そんな中で台詞が全くない白痴の役が割り当てられた事に雷蔵は憤激し、
歌舞伎の世界を去り、大映の誘いもあって映画の世界に転身したのでした。

デビュー2年目の1955年「新・平家物語」で注目を集め、
1958年の「炎上」で雷蔵は主役になりました。
そしてその演技が世間でも高く評価され、雷蔵は映画界でトップスターの地位を手にしたのです。

1963年に始まった「眠狂四郎」シリーズは、12本に及び、
市川雷蔵を代表する映画となりました。
私の妻は、市川雷蔵のファンだそうなんですが、
私はこの「眠狂四郎」シリーズを1本も観た事がないのです。

私が初めて市川雷蔵の映画を観たのは「陸軍中野学校」で、
静かながら、何か不気味なムードが漂っている映画でした。
あの時の市川雷蔵は凄く良かった。
1968年(昭和43年)6月。
雷蔵は撮影中に下血に見舞われ入院します。直腸がんでした。
手術を受け8月10日に退院しました。
本人には知らされませんでしたが、家族には「半年余りで再発する」と知らされたそうです。
1969年(昭和44年)2月に体調不良を訴え再入院。2度の手術を受けます。
しかし、転移性肝がんの為、7月17日に死去、37歳でした。
彼の死から2年後の、1971年に大映は倒産しました。
雷蔵の死は、大映の倒産を象徴する出来事だったとも言われました。
佐田啓二が逝ったのは、1964年8月17日(37歳)
市川雷蔵は、それから5年後1969年7月17日(37歳)
月は1ヵ月違いですが、日にちは同じ17日だったのですね。


佐田啓二と全く同じ年齢の親友に高橋貞二がいました。
その高橋貞二は、佐田啓二が亡くなる5年前。
1959年11月3日、飲酒状態で自ら運転するスポーツカーで、
横浜駅前で市電に衝突し、即死したのです。

新婚9か月だった妻の、女優だったみどりさんは、
そのショックから立ち直れずに、2年後の1962年1月26日。
最愛だった貞二氏の後を追ってガス自殺をしてしまいました。
銀幕の大スターだった人達を襲った悲劇。
何か悲しく切なくなります。
高橋貞二という俳優はあまり知らないのですが、
佐田啓二、そして市川雷蔵。
あの華やかな世界の裏に、こういった悲しい舞台があろうとは・・・
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