私の町 吉備津

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西遊日記

2011-03-06 17:39:20 | Weblog

 江漢が此の西遊日記を書いたのは西遊旅譚を表してから25年もたった文化12年の事だそうですので、内容にはいささかちぐはぐした所がありますが、それに目を通しますと、当時の備中地方の風習がよくわかります。

 その28日の記述です。

 「天気、昼より雲る。喜左衛門同道にて四時ごろ石関町を出て、行く事二里、宮内といふ処あり。遊女ある処、茶屋あり菊屋という揚屋なり。・・・・・」

 この江漢の記述には幾つかの誤りがあります。その一つが、「行く事二里、宮内といふ処あり」です。
 岡山から宮内までは二里どころではありません。実際は、十二里ぐらいはあります。だから、岡山を四時に出て、そんない早くは宮内には到着できるはずがありません。普通に考えても2,3時間はかかる筈です。二時間としても午後六時ごろに宮内に到着するはずです。しかも、江漢は、この宮内で芸者を二人あげています。それから足守に行っています。少々おかしさが感じられます。そこら辺りにも二十五年という時の経過が書かした技ではないでしょうか。

 なお、ここに記されております「菊屋」という揚屋についても、文化年間に書かれた宮内の町内地図には。何処にも見当たりません。この名前も、また、江漢の誤った記憶によるものであったのかも知れません。それを証明する資料が皆無なのです。残されている当時の吉備津の記録によりますと、寛政年間の、誠に詰まらない理由によって起きた宮内と板倉との争いによって、当時の資料の総てが灰になって、失ってしまったと言い伝えられています。
 そのような歴史によって「菊屋」も、江漢を通して見た歴史の中から完全に消えてしまったのかもしれませんね。