私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

もう11回を数えた吉備津寄せ

2009-05-10 21:22:06 | Weblog
  5月10日です。さびしい吉備津神社の春祭りです。里人がだれも関心をよせない祭りです。ただ、で祭を奉祝する為の幟が立てられるだけです。昨日から子どもたちによる「天狗と獅子」が、吉備津のすべての家々を回って無病息災・家内安全を願う巡行が行われるだけです。氏子の人たちが代表で御膳据えに参加するだけです。お宮さんにお参りするわけでもありません。其の他は何にも無い春のお祭りが一人で歩いて行っているだけという感じがします。
 わたし自身やれ吉備津様へお祭りしなくてはという気も端からありません。私は途中から吉備津人になったのですから仕方ないとしても、初めから吉備津にいてここがただ一つの故郷だという人さへもお祭りにお宮さんに参るなんてことはしていないのではと思えます。
 まあ、それが現代のお宮さんとの関係からかもしれませんが?

 我が家では、せめて今日の日ぐらいは、お宮さんへは参らないでも、家でお祭り気分だけでも味わいたいものだと思って。我が家の祭り寿司を所望しております。
 ふき・わらび・たけのこ・さやえんどう等の春野菜とさわら・たこなどの内海の春の魚の酢に和えたものを散らした豪華な寿司が出来上がりました。お酒がついてなお一層よりよい私の春の祭りができました。

 今日は、それから毎年恒例になっている「吉備津寄せ」古今亭菊輔師匠独演会の日でもあるのです。たった1,500円の待っていました春の喜びを聞く会です。
 菊輔さん、うまいもんですね。50年を生きた意気がその芸のあちらこちらににじみ出ているように感じました。その話芸のきめ細かさには一年一年どことなく重さが感じられるのではないかと思いました。
 芸の重さは何を持って計る事ができるかと言いますと、私にはこれといった正確な回答はできませんが、体全体から醸し出される何となしに気が付くというよりか、話の中から感じられる「そうだ。全くその通りだ」という自然と相槌がうてるような、感性だと言えばそれだけですが、聞き手にスーとその話の中に吸い込ませてしまうような話芸があるかなしかで、芸人のうまいか下手か決まってしまうのではないかと思います。
 昔、私は「今輔」という人の落語が大変好きでした。理屈抜きに面白いのです。そんな雰囲気が菊輔さんの全体に感じられるように思います。
 首の細かい動きそれと連動する頭の動き、目の、口の、鼻も、時々見られるのですが睫毛の動きの中にも、ごく自然な喜怒哀楽が現れるから見ている方にもおかしさが余計に思われるのです。感情表現などといった特別な難しい言葉でなくても、悲しいことが悲しく、うれしいことがうれしく聞くわれわれに直接伝わってくるから面白いのです。
 話芸とは、単に、話し手の話し方だけに現れるのもではありません。体全体で聞き手にぶつけるように感じられるから面白いのです。
 森光子がうまいのは、口からだけでなく、体全体から人に話しかけるからです。話し聞かせるのではなく、見る人に何かを思わせるからうまいのです。体から発する主人公のお色気がいつまでも見られるから。見ている者が「うまい」「そうだ」と共感できるからだと思います。
 髪の毛や耳の先っぽという本来からするとそんなところに演技があるものですかという取るに足らないようなところからの発する何となしの色気と言いましょうか、訴えといったらいいのでしょうか、そんなもの中にさへ、その語っている人物の心まで読み取れる様に感じられるから「ああいいな。感激した、森光子はすばらしい」と思われるのです。

 どうぞ 菊輔さん。
 “死せる孔明、生ける仲達を走らす”という言葉が昔からあります。そんな芸人に。
  期待しています。今年も面白かったです。