藤井高雅は、この大坂屋源介からも相当の借金をしていました。記録によりますと、借金の総計では百数十両に達していました。
こんな「預り書」が残されています。
文久二年壬戌十月
金七十両預手形一通
金子預り一札之事
一金七十両也
右の金子相預り候所実正明白也、然ル上ハ御入用之時元利御返済可申、依而一札指入候所如件
文久二年壬戌十月
大藤下房守 印
大坂屋源介殿
高雅は此の年の十一月に京へ出て、琵琶湖疎水工事などのために奔走しますが、この借金は、十月にしたものですから、まだ、宮内にいた時分のものです(緒方洪庵を介して知り合ったと思われます)。
当時、吉備津神社も、相当窮乏していたので、宮内など吉備津社領内だけで通用する「宮内札」を発行するなどして、その急場をしのいでいたようですが、その他近郷の富裕層からの借金も相当あったようです。
上に挙げた「預り書」もそのうちの一部だったのです。言わずもがなのことですが、当然、借金です。返さなければなりませんが、でも、高雅は、文久三年七月二五日の夜、急に、京にて暗殺されてしまいます。
こんな「預り書」が残されています。
文久二年壬戌十月
金七十両預手形一通
金子預り一札之事
一金七十両也
右の金子相預り候所実正明白也、然ル上ハ御入用之時元利御返済可申、依而一札指入候所如件
文久二年壬戌十月
大藤下房守 印
大坂屋源介殿
高雅は此の年の十一月に京へ出て、琵琶湖疎水工事などのために奔走しますが、この借金は、十月にしたものですから、まだ、宮内にいた時分のものです(緒方洪庵を介して知り合ったと思われます)。
当時、吉備津神社も、相当窮乏していたので、宮内など吉備津社領内だけで通用する「宮内札」を発行するなどして、その急場をしのいでいたようですが、その他近郷の富裕層からの借金も相当あったようです。
上に挙げた「預り書」もそのうちの一部だったのです。言わずもがなのことですが、当然、借金です。返さなければなりませんが、でも、高雅は、文久三年七月二五日の夜、急に、京にて暗殺されてしまいます。