倉敷の代官からも遺骸を取りに行きなさいという催促もあったのですが、高雅の子紀一郎は、祖母喜智からの許可を得られませんと、いう理由で、京に上ってはいません。
一方、暴漢に殺害された高雅が宿していた京室町二条下町の下宿の主人山田源兵衛からも再三にわたって事件やその後の様子について手紙が届いています。
まず初めは、殺害された時の様子です。
「・・・・一言も不申懸け首切取立退申候次第に御座候・・・・血汐流れ出、御首無之、何者之仕業とも相分申さす。・・・・」
それから次に、霜月十日に
「・・・・心光寺にて当五日百ヶ日御供養御経営申上猶亦御石碑相建置候・・・」
三通目には、
「・・・・昨年より一応御上京も被成下度旨毎々奉申上候得とも其儀無御座候は全公辺之御憚之思召も被為在候哉に奉遠察候。・・・・・・」
と書いて寄こしています。その中で源兵衛は「中々上京できないのは周りへの憚りがあるだろう」と書います。でも、父の生前の志を墓前で礼拝してあげると。その尊霊はどんなにお喜びのことだろうか、それをするのが子としてのあなたの務めではないかと、しきりに精神的に上京促しています。
この山田という人はどんな人かは分かってはいないのですが、この人の所へ下宿を世話したのが、緒方洪庵の門人緒方精哉という人ですから、ある程度教養の高い人物であることには間違いないと思われます。
でも、紀一郎は一歩も宮内からは動きませんでした。少々長くなりました。その辺りの事についてはまた明日にでも。
一方、暴漢に殺害された高雅が宿していた京室町二条下町の下宿の主人山田源兵衛からも再三にわたって事件やその後の様子について手紙が届いています。
まず初めは、殺害された時の様子です。
「・・・・一言も不申懸け首切取立退申候次第に御座候・・・・血汐流れ出、御首無之、何者之仕業とも相分申さす。・・・・」
それから次に、霜月十日に
「・・・・心光寺にて当五日百ヶ日御供養御経営申上猶亦御石碑相建置候・・・」
三通目には、
「・・・・昨年より一応御上京も被成下度旨毎々奉申上候得とも其儀無御座候は全公辺之御憚之思召も被為在候哉に奉遠察候。・・・・・・」
と書いて寄こしています。その中で源兵衛は「中々上京できないのは周りへの憚りがあるだろう」と書います。でも、父の生前の志を墓前で礼拝してあげると。その尊霊はどんなにお喜びのことだろうか、それをするのが子としてのあなたの務めではないかと、しきりに精神的に上京促しています。
この山田という人はどんな人かは分かってはいないのですが、この人の所へ下宿を世話したのが、緒方洪庵の門人緒方精哉という人ですから、ある程度教養の高い人物であることには間違いないと思われます。
でも、紀一郎は一歩も宮内からは動きませんでした。少々長くなりました。その辺りの事についてはまた明日にでも。