私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備って知っている  162 藤井高雅の遭難の後始末⑤

2009-05-19 20:39:49 | Weblog
 無残にも暴徒によってその志半ばで倒れた高雅の事件は、この片田舎の宮内でも、人々の間で大変な噂を引き起こしています。なにせ、先の吉備津宮の神主が何者かの刃に掛かって切り殺されたのです。その噂で吉備津中が大騒ぎになったことは確かです。高雅の本当の心意などとは無関係に、あることないことあらゆる方面から噂が飛び交います。
 地域の古老の話ですと、当時、この事件は、高雅の紀淡海峡の暗礁計画とは全く無関係の、京の遊女等の話を絡めて、さも本当かのように話を造り変えて、人々の間で話されて、噂になったとも言い伝えられています。
 このような噂が渦巻いていた宮内では、「せけんてえがわりい」というだけで、藤井家の人たち、母の喜智も兄の輔政も、勿論、紀一郎も、ただ息をひそめるようにひっそりと暮らしていたのです。
 だから、遺骨を引き取りに京へ行くなんてことができるわけがありません。その辺りのことを山田源兵衛はよく分かっていたのでしょう。手紙の中に「憚」という言葉を使っています。
 記録にも何も残っているわけではありませんが、高雅の母喜智の「不許」だけで、紀一郎は遺骨を京に迎えにはいけませんでした。それに代わってというわけでもありますまいが、高雅の臍緒などを、それでも祖先の祀られている板倉山、即ち向山の墓場に埋葬しています。
 でも考えてみますと、「行ってはならない」と言った高雅の母親の心情はいかばかりてあったでしょうか。筆舌には尽せない悶々たる苦悩があった事は確かなことだと思われます。
 例え、どんない遠くても、すぐにでも、その遺骨を取りに行くのが母親の本当の心だと思います。そんな心を隠して、「行くな」と、ただ一言、強く言いきった、いや、言わざるをえなかった母の気持ちを推し量るだけでも、その憂思がぴんぴんと伝わってくるように思われます。
 でも、母は「強かりき」です。その辺りに、この喜智という人の偉さがあるのです。封建社会の女性の強さがあったのす。
 「許してくださいよ。我が息子よ」
 張裂ける様な苦しさに耐えるだけの強さが備わっていたのです。それが徳川の女性の姿なのでもあります。
 

 時代的、地域的に見ても、江戸時代の庶民の生活や思想の凝縮が、この吉備の国の狭い吉備津の地で十分に伺い知ることができるのです。誠に不可思議な土地であるとも言えます。
 神社、寺社奉行と天領、山陽道の宿場町、遊女と色街、やくざの親分、それと対象的な教養人としての学者と素封家、そんなものが総て入り混じって不思議な社会構造を伴った特殊な地域を構成していたことがうかがい知ることができます。だからこそ、江戸時代がよく分かるのです。まことに面白い土地なのです。此の吉備津は。