私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

頼山陽と吉備津 6

2008-02-14 13:33:36 | Weblog
 「頼山陽と吉備津」の最後に、これは直接吉備津とは関係はないのですが吉備津と関わる資料として文章が残っていましたので、それについて述べます。
 それによると、高尚先生の従兄弟に当る人が現在の吉備中央町円城の名主沼本氏に輿入れします。その沼本氏が、戦国時代に、備前北部から美作一帯で、大変活躍された沼本氏の祖先を顕彰しようとして墓碑の建立を計画されます。その文の作成を妻の従兄弟の高尚先生を通して山陽に依頼したものであるようです。
 その文を推敲する時、山陽が高尚先生に宛てた書簡が残っています。

「新禧申納候、愈御清健被成御超歳之義と奉賀候、然は去冬被仰越候沼本氏墓表
正月中可仕旨・・・・           頓首
 正月廿日     頼徳太郎   松斎老兄」
 と。
  頼徳太郎とは頼山陽で、松斎とは高尚先生です。文政五年で山陽42歳、高尚58歳の時だそうです。
 

 このような世に隠れた資料が、まだまだ、沢山この吉備津地区にはあるのではないかという話ですが、総てを明らかにするにはなかなかの豊な知識と労力が必要であることには間違いありません。

 なお、高尚先生の従兄弟の名は『美屋』という名前だそうです。この人のことについては御津郡誌にくわしくでています。今の世の中では到底考えられないような婦女鏡だったようです。明日にでもご紹介します。

普賢院のお庭と頼山陽

2008-02-13 11:59:54 | Weblog
 普賢院での護摩焚きをご紹介しましたが、この寺と頼山陽との関係は、山門お側にある山陽の石碑だけはないようです。
 それを証明するものは現在は何も見つかってはいないのですがないのですが、
 「この普賢院の書院からお庭を見ながら、山陽先生がお酒を飲まれたということです」
 と、この寺の真西院主さまがニコニコしながら言われたのを聞いた事があります。多分言い伝えとして、この寺に残っているのではと思われます。
 訪れになった季節も分ってはいません。ここにあるお庭は不知火式の枯山水だそうですが、大層興味を持って眺められたというお話でした。そのときの感動を山陽はきっと何か詩に残されたのではないかと思うのですが、
 「残念ながら何一つこの寺には残ってないのだ」
 と、和尚さまは言われます。

 見つかれば吉備津の、いや岡山の宝となるのは確かですが。

 もし、山陽先生が普賢院で作られたとすれば、どんな詩になっていただろうかなと、久しぶりに唐詩選をぱらぱらと捲ってみました。こんな詩だろうかと、うかがわせるようなものあるにはあったのですが、どれも山陽流の詩ではありませんが
 その中から、意味はこんなのではなかったかと想像を巡らせて、一つ『朱放』という人の詩を載せておきます。

 歳月 人間(じんかん)に促(せま)る
 煙霞 此の地に多し
 慇懃にす 普賢院の庭(本来は竹林寺)
 更に幾回(いくかい)か過(よぎ)ることを得ん

  意味は、
 「年月はあっという間に過ぎていくが、ここへ来ると大変空や山が美しい。ねんごろに普賢院の庭を眺めている。後何回ここへ来る事が出来ようか」
 と、いうぐらいだろうと思います。
 
 ついでですが、お酒をおのみになったという事を聞き、私の好きな詩(于武陵)をもう一つ。
 君に勧む 金屈巵(黄金の盃)
 満酌(なみなみに注いだお酒)辞するを須(もち)ひず
 花発(ひら)いて 風雨多し
 人生離別足る
 
 それにしても、山陽は真野竹堂を通して、この吉備津を度々訪れている事は確かです。

普賢院の護摩焚

2008-02-12 08:20:54 | Weblog
 11日建国記念日です。
 今日はわが町吉備津にある名刹普賢院 
の護摩焚き供養が行われます。
 もう90にもなるわが母上も、足腰が悪いにもかかわらず、「是非お参りする」といって、朝早くから浮き足立っています。
 それでという訳でもないとは思うのですが、朝から早春を思わせるような柔らかな日の光が空一杯に広がっています。
 会場は、早くから大勢の檀家の人で埋め尽くされて、開式を待っています。
 
 式は厳かに始まります。種々のご祈祷に続いて、護摩焚き供養もいよいよ本番です。うずたかく積み上げらてた護摩に点火されます。もくもくと立ち上る煙、ぱちぱちと飛び跳ねる火の粉。その立ち上る煙はすべての煩悩を打ち払うように真っ青な早春の空に吸い寄せられているようです。

その煙と参加者全員の般若心経の読経の声が合い混ざって『・・・掲諦掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦 菩提薩婆訶般 般若心経・・・』、と、不思議な世界に引き込んでくれます。
 意味は分らないのですが、煙とともに境内一杯に流れているお経の声がそこいらにある一切のものが総べて何もない、今朝のからっぽな真っ青なお空のようなとらえどころのないのですが、それだからといって何もないのではない、何か非常な大きな其処を流れている煙のような得体の知れない物に包まれているような気分にしてくれます。
 『・・・・・・・色不異空 空不異色 色即是空 空即是色・・・・』と、美しい音色の読経が打ち続きます。 
 
 最後は参加者による残り火の上の御渡りがありました。


 
 
  春まだき 護摩の煙の 立ち昇り
               色即是空 空に満々

吉備津神社のお屋根替え完成間近か2

2008-02-11 08:55:40 | Weblog
 お屋根替え最後の公開が9日から3日間ありました。ほぼ完成です。                              後は覆いを取り払い千木と鰹木等の棟の飾りつけだけです。

 
 大勢の人の見学でした。約1時間半ぐらい待って見学できました。
(写真は下で見学順序を待つ人々です)

「とう惰」「蕩逸」、どんな意味でしょう

2008-02-09 12:16:30 | Weblog
 久しぶりに大学で漢文の先生をしていた友人を訪ね、このブログで取り上げた頼山陽の竹堂の長男守成墓誌に記してある文について教えてもらいました。
 その墓誌には「宮内が山陽道一の歌舞郷である」と記してあります。これは誰が読んでも分ります。が、問題はその後の言葉です。「婾惰」「蕩逸」「涅而不緇」と言った難しい言葉が並んで書き込まれています。これらの言葉について尋ねました。

 さすが漢文の先生だけはあります。直ぐに答えてくれました。
 まず、「涅而不緇」です。
 すぐその言葉の持つ意味を自分の持つ書物までが出して説明してくれました。まこっと、うすぼけて、私の物だったらとっくの昔に捨ててしまっておるのではと思われるような汚げな書物です。消え入りそうに、字だけは達者に金文字で「論語」書かれてありました。
 
 まず、読みについて;
 『涅(でつ)すれど緇(くろ)まず』
 そして、その意味は;
 『黒い土にまぶしても黒く染まらない。宮内という山陽道一のヤクザな地域に有っても少しもその垢に染まらない何処までも高潔な人であった、ということを言っているのだ』

 それから、ついでのように「婾惰(とうだ)」「蕩逸(とういつ)」についても説明をされます。怠け癖が付いてしまって、悪賢く、その上しまりがなく、いい加減にその日暮らしをしているような無頼な者のことを言う言葉なのだそうです。
 
 『宮内は、こんな人々の集まりの町でだと、大変けなし、けちをつけ、馬鹿にされているのにもかかわらず、地元の人たちは頼山陽先生に「山陽道一の町だといわれたとか、鯉山と名を付けていただいた」と、大層自慢しているそうではないか、それも、まあ、いっか』
 と、例のあの豪快な「あはははは」という高笑いにも驚いたりしながら話を聞きました。

 友達とはいいもんですね。

雪の日のお話

2008-02-08 17:38:27 | Weblog
 今日、久しぶりに倉敷で古い友人と昼食を共にしました。その席での話です。
 友人曰、
 「今年は雪がえろう多いんジャが、こんな話があったそうじゃ。」
 と、ビールを一口つけて、やわらこんな話しをされました。
 「この前の雪の日、ある学校の校長が全校に『今日は雪が降っているので、運動場では遊ばないように』と、放送で子供達に注意を促したそうだ」
 これがその一つで、もう一つは他の学校の話しで、ある学校の保護者がこんな電話を教育委員会にしてきたという。
 「今日うちの子はこの雪が仰山降っているにもかかわらず、運動場で遊んでいた。風邪もひいたら責任は誰が取ってくれるのだと」
 

 この二つの事例を「どう解釈すれば」と、いうのが彼の話です。

 雪の中で遊ばせたと抗議をする親も端から外での遊びを禁止する先生もいる、これが「現代の学校教育の現実だ」という事です。

 皆さんはどう思われますか。折角の雪です。もう少し子供のしたいように伸び伸びとほうっておけばいいのではと思うのですが。
 危険を周りの大人が事前に察知して、問題が起らない対策を講じることだけが教育でしょうか。
 今朝の新聞で、大きく報じられている相撲部屋の殺人事件も、大元の原因は、こんな教育がもたらしのではないかともふと思いました。その場その場に相応しい対応をする訓練が出来てなく、自分の勝手な解釈しか出来ないで、一方的な独断的な行動が衝動的になされ事件が起ってしまうのではないでしょうか。

 指示待ちでしか動いた経験がないから、この場合どう行動すればよいか理性を働かせる訓練が出来てないからではないでしょうか。
 

吉備津神社のお屋根替え完成間近か

2008-02-07 20:15:46 | Weblog
 早いもんで2年そこいらの時間が経過しました。吉備津神社のお屋根もぼつぼつ完成に近づいたということです。周りを囲いしているために、その細かなる全貌は分りかねるのですが、ほぼ時間的に見て完成が間近じかになったのではというか印象があります。
 
 (この写真は07年6月22日ものです)
 1日参りの時に見たのですが、2月9,10,11日に、葺き終ったお屋根の全貌か見学できるという事です。あのお屋根はどう変身しているのでしょうか楽しみです。
 時間に余裕のあるお方はどうぞご見学してみてください。「一見は百聞にしくわなし」のためしです。
 

頼山陽と吉備津 5 真野家の墓石

2008-02-06 12:07:54 | Weblog
 吉備津向山の千日墓地の一番上に真野家のお墓があります。
 
 その中一番東よりに建てられているのが真野竹堂の長男守成のお墓です。この墓の墓誌の撰と書が頼山陽の手によるものです。この中で山陽は、
 「備中宮内山陽一歌吹郷也」
 と、記し宮内を紹介しています。(文化十一年ー1815)
 なお、二男守業の墓誌は菅茶山(備後の人)。竹堂の墓誌は篠崎子竹(大阪の人)によって記されています。
 まあ当時として、これぐらい幅広く全国の文人墨客を関わった人は少なかったのではないでしょうか。
 「山陽道きっての当代随一の素封家だ」と言われた所以です。

吉備の中山-谷文晁の名山図会より

2008-02-05 15:04:22 | Weblog
 今日も本から吉備津を見てみます。
 谷文晁が描く「日本名山図会」の中の吉備の中山です。たった150mそこそこのお山ですが、堂々と富士山、磐梯山、御嶽、大山などと肩を並べて描かれています。
 それだけ当時(江戸文化年間)日本を代表されるようなお山なのでした。それが明治以降、岡山県などの無策が今のようなあるかないかも分らないようなお山にしてしまったといっても言い過ぎではないように思えます。あれだけ天下にとどろかしたお山が寂しい限りだと、歎いているようでもあります。

 なお、谷文晁描く吉備の中山は実際とは少々異なった所もありますが、それは文晁が実際現地で写生したのではなく、誰からか聞いた話を基にして想像して描いたからだと思います。この写真からでも分るように、実際はもっとなだらかな女性的な優しいお山なのです。

おやおや! こんな所にも宮内の熊五郎親分が

2008-02-04 11:23:12 | Weblog
 退屈まぎれに、図書館から本を借りてきて読んでいます。その中の一冊に佐藤雅美の「半次捕り物控」があります。そこに、この作者は何処で知ったのかはわかりませんが、「宮内の熊五郎親分」を登場させています。
 
 「半次の連れあり志摩は備中宮内の顔役岡田屋熊五郎の娘・・・」

 というくだりがありました。こんな所に誰にも気付かれないようにそっと宮内の熊五郎親分が生きていたのです。なんだか知らないのですが、たったこれだけの25字ほどの文字が、昔の恋人にでも合ったような本当に懐かしい気分にさせてくれます。 
 「本って本当にいいもんですね」
 
 外は、それこそ「春は名のみの」で、今日も北風が雪っぱなを舞き散らしています。

梅一輪ほどの・・・

2008-02-03 12:13:26 | Weblog
 今朝も吉備津の野山は薄らと雪の薄化粧です。その雪を被ってご近所の梅が1,2輪白い花弁をそっと覗かせています。
 今朝の新聞に
   年の内に 春は来にけり 一とせを
           去年(こぞ)とや言わむ 今年とやいはむ
 という歌が紹介されていました。
 明日からは春なのです。いわゆる「三冬ここに尽きて初春迎え」の節なのです。
 三冬とは、孟冬・仲冬・季冬なのです。季とは、終わり・末を意味するのだそうです。
 この日を境にして、暦の上では春になるのです。明日が立春です。だから豆まきは節分の夜、冬の季の日の夜行われるのです。

 豆まきについては、私の家では吉備津神社のお祓いを受けた豆を頂いてきて、それをまず最初に表口に立って打ち撒き、続いて各部屋ごと戸を開け放して撒きます。
 昔は、豆を炒って、枡の中に入れ、自分の家の神棚にお供えしてから「豆まき」を行っていました。
 「神棚に座します歳神様にお供して、それから豆まきをするのだ」
 と、子供の頃祖母から聞いたことがあります。
 その後、本などから知ったのですが、この神様は、大歳神とも言われ、スサノオノミコトのお子様だそうです。稲穂を授ける神様で、正月に各家に、門松を通ってお入りになり、秋になるとお帰りになると言い伝えられています。稲荷神の元々の神様のようだとも聞いていますが?
 この前ご紹介した「倉稲魂」(うがのみたま)神や「保食神」(うけもちのかみ)等とも係りのある神様のようです。

 兎に角、明日からは春なのです、隣の垣根から遠慮がちにそっと顔を覗かせている2,3輪の白い梅の花を見るだけでも、私だけのとっておきの春のような感じがします。

ひてえしょうがつ

2008-02-02 11:01:19 | Weblog
 二月です。
 もうこの頃では「旧正月」を祝う風習は廃れてしまい、この「旧正月」という言葉さえすっかり我々の周りから消え去ってしまっています。私が子供の頃、5、60年も前には、まだ吉備地方では農家中心ですが、旧正月を祝う風習が依然として残っており、「旧正月休み」などと言う子供達にとっては、それはそれは心をわくわくする3日がありました。
 そんなこともあってがどうかは分らないのですが、我々と同年齢の人にはきっと随分と懐かしい響きがこの言葉の中にはきっとあるのではないかと思います。   学校へ行く途中に「1俵餅を朝の3時ごろから搗いた」とか、口々に言う沢山の友達の話に凄く驚いた経験があります。私の家は農家ではなかったものですから、その1俵というのがどれくらいの多さなのか判断しかねて、ただ「朝の3時から」という想像もしたことがなかった時だけが、子供心にやけに重たくこびり付いています。その3時という時とお餅の量を結び付けて、きっと家中に筵か何かを引きつめて、その上にぎっしりと並べ置かれてあるだろうお餅の図柄を想像して驚いたのであろうと、また、誰もがわらじ履きでしもやけ皸一杯の手を降り降り川面の側を登校した昔をも併せて懐かしく思い出させてくれます。
 それとは別に2月1日を「ひてえ正月」と呼んで、朝、いまだに残っている新正月もちをお雑煮にして頂いておりました。この頃まではお餅が何処の家でもあったのではないかと思います。私の家は農家でもなくそんなに沢山のお餅は搗いていませんでしたので、この「ひてえ正月」までお餅が残っているという事はなかったのですが、母が何処でどう工面したのか知りませんが、兎に角、毎年「ひてえしょうがつ雑煮」は頂いていたように思います。
 
 そんな風習も完全に廃れてしまった頃、ある新聞に「一日正月」という字が出ておるのを偶然見つけました。その字には「ひとひしょうがつ」とルビが打ち込んであります。
 「ひとひ」がこの辺りでは「ひてえ」に変化したのかと気が付きます。そう言えば、「ごうけい」を「こうけえ」、「さいぜ」が「せえぜ」、「たねい」が「たねえ」などと呼んでいる例がいくらでも見つけることが出来ます。これは備中だけではありません。関東辺りにもたくさん見出す事が出来ます
 
 ちょっと話が飛びますが、この中央言葉(京言葉)の方言化の面白い例をご紹介します。
 私の生まれ故郷に「あさあ」というがあります。字名は「浅井」ですが、土地の人たちは「あさあののぶやんがのお」というように、誰も浅井という本来の名で呼んだことはありません「あさあ」が普通の呼び名です。この「あさい」が「あさえ」更にもっと変化して「あさあ」に、今でもなりきってしまっています。
 〈asai〉の〈a〉と〈i〉の2つの母音が結びついて「a」という一語の言葉になったのです。単なる「あ」でなく「あー」というこの土地独特の面白いアクセントやイントネエションを持った方言化した言葉になっているのです。
 
 さて、この「ひてえ」も、京あたりの「ひとひ」という言葉がこの地方に入ってきてから、次第に「ひとえ」、「ひてえ」と変化したのではと思い、方言の面白さを今更のように感じています。

 まあそれはそうとして、我家では私の相も変わらないリクエストで、でも朝ではなく夜にお雑煮を美味しく頂きました。鰤は入っているかなと心のうちで思っていたのですが、出てきた汁碗には3個のお餅とかまぼこ、百合根、ほうれん草、ニンジン、牛蒡にちゃんと2切れの鰤も顔を覗かせていました。
 やれやれ。別にやらないからといって何のこともないのですが、今年も年寄りの「ひてえ正月」を無事に迎えることが出来ました。
  
 



吉備津保育園の豆まき

2008-02-01 12:58:32 | Weblog
 今年最初の吉備津神社朝詣会がありました。新装成った本殿に参拝して、玉串を奉り、拍手を済ませて朝ご飯を頂くのです。如月の寒さが身を切る中での拝礼は、この頃何につけても怠りがちな我が心に活を入れてくれるようでもあります。
 それを済ませて、吉備津保育園の「おにやらひ(鬼遣、追儺)」豆まき行事に参加しました。
 
 この保育園では、近頃、自分達の家ではめったに体験することが出来なくなったような沢山の季節季節の行事をこまめに取り上げて、子供達に体験させておられます。一人一人のおおらかな心の成長をめざして、子供達が活動できる場を設定され、その中で如何に身体を動かせばいいのかを考えさせていただいているので。
 「幸福なる園児よ、子達よ」と呼びかけたいような光景です。
 わたしも一人の園児の祖父として何かお手伝いする事はないかと考え、吉備津保育園のおにやらいの日に、ヒイラギとめざしを持って「こんないわれもあるんだよ」と豆まきに参加させて頂きました。
 
 幼い純な心を何時何時までも持ち続けて、幸せにと思いながら、きゃきゃと何時までも歓声を上げながら楽しんでいるこの子たちの教室を後にしました。
  
   投げつける 園児の豆や 春立ちぬ 
   豆撒きや 柊鰯 鬼は外
   目刺嗅ぐ 園児の声や おにやらひ