「頼山陽と吉備津」の最後に、これは直接吉備津とは関係はないのですが吉備津と関わる資料として文章が残っていましたので、それについて述べます。
それによると、高尚先生の従兄弟に当る人が現在の吉備中央町円城の名主沼本氏に輿入れします。その沼本氏が、戦国時代に、備前北部から美作一帯で、大変活躍された沼本氏の祖先を顕彰しようとして墓碑の建立を計画されます。その文の作成を妻の従兄弟の高尚先生を通して山陽に依頼したものであるようです。
その文を推敲する時、山陽が高尚先生に宛てた書簡が残っています。
「新禧申納候、愈御清健被成御超歳之義と奉賀候、然は去冬被仰越候沼本氏墓表
正月中可仕旨・・・・ 頓首
正月廿日 頼徳太郎 松斎老兄」
と。
頼徳太郎とは頼山陽で、松斎とは高尚先生です。文政五年で山陽42歳、高尚58歳の時だそうです。
このような世に隠れた資料が、まだまだ、沢山この吉備津地区にはあるのではないかという話ですが、総てを明らかにするにはなかなかの豊な知識と労力が必要であることには間違いありません。
なお、高尚先生の従兄弟の名は『美屋』という名前だそうです。この人のことについては御津郡誌にくわしくでています。今の世の中では到底考えられないような婦女鏡だったようです。明日にでもご紹介します。
それによると、高尚先生の従兄弟に当る人が現在の吉備中央町円城の名主沼本氏に輿入れします。その沼本氏が、戦国時代に、備前北部から美作一帯で、大変活躍された沼本氏の祖先を顕彰しようとして墓碑の建立を計画されます。その文の作成を妻の従兄弟の高尚先生を通して山陽に依頼したものであるようです。
その文を推敲する時、山陽が高尚先生に宛てた書簡が残っています。
「新禧申納候、愈御清健被成御超歳之義と奉賀候、然は去冬被仰越候沼本氏墓表
正月中可仕旨・・・・ 頓首
正月廿日 頼徳太郎 松斎老兄」
と。
頼徳太郎とは頼山陽で、松斎とは高尚先生です。文政五年で山陽42歳、高尚58歳の時だそうです。
このような世に隠れた資料が、まだまだ、沢山この吉備津地区にはあるのではないかという話ですが、総てを明らかにするにはなかなかの豊な知識と労力が必要であることには間違いありません。
なお、高尚先生の従兄弟の名は『美屋』という名前だそうです。この人のことについては御津郡誌にくわしくでています。今の世の中では到底考えられないような婦女鏡だったようです。明日にでもご紹介します。
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