山陽は書かれた高尚の文をそのまんまに、昨日ご紹介したとおりの惚れ惚れするような楷書で書き上げます。
なお、言い伝えによりますと、高尚は最後に起草した文には、自分の名「宮内長門守従五位藤井高尚 撰」としてやや大きな字で、そして、この文を書く頼山陽の名は、石碑の裏面にでもと思われていたかのように小さい字で文面よりやや離れた所に「安芸 頼襄書」と書かれていたそうです。
所がです。山陽はその高尚の文を見て、そのままに書き写すのですが、出来上がった紙面を見ると「安芸 頼襄書」という字は、「・・・高尚 撰」等の字よりはずっと大きく、しかも、ものすごく力を入れてより丁寧に、すぐその後書いてあるます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/d0/9f623ed8277386a67156888c57ae074e.jpg)
横の文字と同じ大きさで「・・・藤井高尚 撰」と書かれていますが。「安芸 頼襄書」という字が一段と大きいのに気が付かれると思います。
これを見られた高尚先生はどう思われたかということはわかってはいませんが、「ふん、なかなかやるわい、山陽さんよ」ぐらいには思われていたのかもしれませんが、きっと知らん顔の半兵衛さんと決め込まれていたのではと思われます。そんなことぐらいでびくつく先生ではありませんもの。
その頃ようやく山陽の名声も次第に高くなっていた時期でもあるし、笠岡の小寺清先という人の同門で弟弟子でもあるという関係から近親間をもたれていたということは確かです。それは、これからも高尚と山陽の交渉はずっと続いていますので。例の沼本氏の碑文依頼はこれより4年後ですから。
山陽先生の向こう意気の強さがこの碑石の中から読み取れます。そんな意味からも、この碑はまことに珍しい石碑でもあるのです
なお、山陽先生は30歳前後からお酒を窘められるようになったとか、若い時は甘いもの、特に「あべかわもち」等の甘いものには目がなく、お酒には目も呉れないという話でした。でも、結局、このお酒が命取りになり53歳でお亡くなりになっておられます。
なお、言い伝えによりますと、高尚は最後に起草した文には、自分の名「宮内長門守従五位藤井高尚 撰」としてやや大きな字で、そして、この文を書く頼山陽の名は、石碑の裏面にでもと思われていたかのように小さい字で文面よりやや離れた所に「安芸 頼襄書」と書かれていたそうです。
所がです。山陽はその高尚の文を見て、そのままに書き写すのですが、出来上がった紙面を見ると「安芸 頼襄書」という字は、「・・・高尚 撰」等の字よりはずっと大きく、しかも、ものすごく力を入れてより丁寧に、すぐその後書いてあるます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/d0/9f623ed8277386a67156888c57ae074e.jpg)
横の文字と同じ大きさで「・・・藤井高尚 撰」と書かれていますが。「安芸 頼襄書」という字が一段と大きいのに気が付かれると思います。
これを見られた高尚先生はどう思われたかということはわかってはいませんが、「ふん、なかなかやるわい、山陽さんよ」ぐらいには思われていたのかもしれませんが、きっと知らん顔の半兵衛さんと決め込まれていたのではと思われます。そんなことぐらいでびくつく先生ではありませんもの。
その頃ようやく山陽の名声も次第に高くなっていた時期でもあるし、笠岡の小寺清先という人の同門で弟弟子でもあるという関係から近親間をもたれていたということは確かです。それは、これからも高尚と山陽の交渉はずっと続いていますので。例の沼本氏の碑文依頼はこれより4年後ですから。
山陽先生の向こう意気の強さがこの碑石の中から読み取れます。そんな意味からも、この碑はまことに珍しい石碑でもあるのです
なお、山陽先生は30歳前後からお酒を窘められるようになったとか、若い時は甘いもの、特に「あべかわもち」等の甘いものには目がなく、お酒には目も呉れないという話でした。でも、結局、このお酒が命取りになり53歳でお亡くなりになっておられます。
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