私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

雪舟の石碑

2008-02-18 15:17:42 | Weblog
 高尚先生の従兄弟の美屋女との関係から、円城の沼本家の墓碑について頼山陽に依頼して書いてもらったのは文政4年のことです。
 この4年前、文化14年には、高尚は総社の素封家岡崎某(? 多分こんな苗字だったと思いますが間違っているかもしれません)から雪舟の記念碑を建立するからその文を書いて、できる事なら、その書は高尚と昵墾の頼山陽に書いてもらって欲しいと頼まれます。
 其処に、どんな経緯があったのかは分りませんが、兎に角、高尚の碑文と山陽の書が出来上がります。
 
 話はそれだけですが、これが出来上がるまでに面白い経緯があったそうです。

 その前に、当時、高尚は54歳、山陽は38歳だったそうです。16歳の年齢の開きがあり、長幼の序が大層重んじられていた江戸の末期ですから当たり前の事だったのかも知れませんが、少々、高尚は山陽を見下していた所が無きにしも非ずだという事でした。これを頭に入れて、次を読んで頂きたいのです。

 高尚が書いた雪舟の碑文は、それまでの碑文の常識を逸して、当然、ひらかな交じりの和文で仕立てたのだそうです。
 高尚が差し出した文面を見た山陽は、
 「私はひらがなはかけない、漢字文でなければ書けない。」
 と拒否したという。
 其処でどのように話し合いがついたのかは分りませんが、高尚は万葉かな(漢字)を使った和文に書き直したのだそうです。但し、私の言う事も聞きなさいというのでもないでしょうが、「ニ」というカタカナをこの800字ほどの文の中で2ヶ所残しています。それを、又、漢字しかかけないといった山陽が忠実にかどうかは知らないのですが、惚れ惚れするぐらい見事な楷書で書き上げてありますが。念のために。
 

 これだけであればどういうこともないのですが、これにはまだ続き話があります。長くなりますので、明日にでも又。

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