私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

沼本みやー吉備津の女

2008-02-15 09:49:10 | Weblog
 高尚先生の従兄弟である美屋女は、先生の父高久の弟藤井高寛(左忠治)の娘です。21才の時、円城の沼本宇右衛門に嫁しています。
 生まれつき貞淑で、舅姑に慇懃に仕え孝養怠りなく、日々家業も育児に到るまで姑の指示によく従い、その意に反するようなことは事は決してしなかったという。嫁入りしてから一度も宮内へは帰えらず、また、家事もきちんとこなし、茶碗一つも割った事がなく、針仕事もきちんとできるし、舅に対しもよく肩や腰を按摩してあげたという。
 そんな一家も舅の失敗から、家の田畑など財産総てが人手に渡る逆境に陥った時、「みや」を不憫に思い、一家相談の上、離縁して里である宮内に帰らそうと決めたのですが、そのみやは頑として聞き入れず、夫を励まして家業に精を出したそうです。
 田畑をこまめに耕作し、家計を節約しながら、二人の子供の教養に努め、一度も大声を上げたことなく、雨の日は自ら手習い読書を教えたという事です。長男は後に名主役まで勤めています。夫は大阪に出稼ぎに行くのですが、その間貞操をよく護り、一度没落した家をよく守り立て、出稼ぎから帰った夫が中風に罹り言語不自由、起居意にならずであったが、そんな夫を励ましながらよく看護したのです。
 そんな「みや」行いは藩主の聞くところとなり、『婦徳の亀鑑なり』として、特別に米八俵を送って孝貞を称えたのです。
 この藩主から美屋女に送られた米を、円城の人が旭川さかのぼって船で運んだ時の事だそうです。船が円城に入るや否や、大きな一匹の鯉が飛び跳ねて、その舟に飛び込んだという。「みや」の行いを天が大いに感じてのことだったと、その後、長く村に言い伝えとして残っているのだそうです。

 その当時の女性は「三従」という自由が殆ど認められない封建社会の中にあって隠忍自重を強制されていたのですが、すべての女性が、この「みや」さんのようにはいかなかったようです。だからこそ、『自らを犠牲にして親や夫や子に仕える』という徹底した封建社会のかがみとしての「みや」という一人の女性の美徳が藩主の知りえる所になるのだと思います。
 寛政年間という18世紀末の幕藩体制の退廃直前に、庶民の生活引き締めのため行われた藩の諸政策の内の一つとしての匂いはするのですが、でも、そんな女性が吉備津に生まれていたということは、吉備津人にとっては自慢話にはなるのではないでしょうか。
 

最新の画像もっと見る

コメントを投稿