平蔵は、用意された膳の前に座って、床の間に活けてある遅い山桜を見ていました。風も何もないのですが、その一つの枝から、ひらりとたった一輪ですが花びらが黒柿か何かで出来ている床の框の上に散り掛かりました。箸を止め、茶碗を膝の上に載せたままでしばらくじっと感慨深げにその一輪の花びらを見ていました。お園さんも平蔵の視線に気が付いたのでしょう、ふと振り向きます。
「あら、花びらが。・・・・此花が終わったら春がゐんでしまいます。お仕事がお済でしたら、吉備津様にでもご案内しましょうか。時々、うちのお客様に頼まれてご案内することがあるのです」
「ああ、ご案内していただけますか。でも、私はぐずのほうですから書き上げるまでもう少し掛かると思いますが。出来上がったら声でも掛けます」
そんな取りとめのないお昼の二人でしたが、平蔵の胸内に、急に、何か随分昔から知っているような暖かい親しみみたいなものがなんとなく湧いて来て、お日奈さんの「ええひとでーおよめにどう」と、言った言葉を思い出して、顔が赤らむように思えました。
開け放たれた障子戸から入る風は爽やかに吹き来たります。
食事が終わると、再び、机に向かいます。今年の作付けや取れ高見通し、更に、値動きの動静まであらゆる平蔵が歩いて集めた村々の備中綿に関する情報をこまめに書き記していきます。
ちょっとした挨拶言葉の中からでも、綿百姓の持つ、もう何十年と代々積み上げられた冷たいまでに冷徹な彼らの直感的判断を見逃さないよう集めていかなくてはならないのです。
こちらの話とあちらの話が全然異なり、どう判断すればいいのか迷うことがしばしばあるのです。が、そんな時一番頼りになるのは、ちょっとした立ち話し中から集めた情報なのです。往々にして彼らの話には、本当のことがごく限られた場面しかないのです。殆どがうそで固められているといっても過言ではありません。それは、彼らが常に支配者からの厳しい取立てにあっているからです。彼らが生きていくために、真実を語らない事がもっとも大切なの自衛のための生活手段だったのです。村全体、いや国全体とでも言った方がいいのかもしれませんが、百姓たちがみんなしてうその情報を一杯に流し、取立てをいくらかでも少なくすることにしか生き延びる方法がないのです。生きてはいけないのです。それでも役人の目を逃れることが出来ないという悲哀を一杯に背負って生きているのです
そんな百姓の持つ宿命でもある悲哀を平蔵は十分知って生まれてきました。ひょんなきっかけで、この舟木屋での仕事に携わってからもう7、8年にはなるのですが、今でも、その時々の百姓の持つ本当の情報を掴み切ることは出来ないのです。でも、自分の判断の甘さがお店の大損害を生む基になります。それだけ慎重な調査ががいります。そのためには年季も、経験ですが、大切ななります。それは自分の目による判断こそが最も正しいということなのですが、この二つだけではどうしても正しい情報を手に入れることは出来ないのです。経験と感だけではどうしようもない世界なのです、人と人との突っ張り合いなのです。やっぱり最後は人柄が勝負を決めます。
「あのお人はええ人だ」
と、いうことを知ってもらうしか方法はありません。それだけです。人の誠実さなのです。優しさなのです。それが信頼を生み、的確で正しい情報を捕まえることが出来るのです。
「えぇつぁー、連島の百姓の子倅らしいけー我々百姓を騙したり馬鹿にしたりせんど」
という噂話もこの誠実さとともに信頼を勝ち取ってきた原因があるようです。
そのようにして集めた報告のための書類を平蔵は一日がかりで丁寧に書き上げてました。
墨をする音がかすかに響き、障子に映った日の影が段々と、また、広がっていきます。ぼつぼつ街中の喧騒が始まる頃ですが、ここまでは届かないのでしょう静かな初夏の午後です。
平蔵は書き上げた紙をまとめ、もう一度読み返します。ようやく今日の仕事は一段落です。後は、板倉にある飛脚屋の金友屋に頼んで、一日がかりでこさえた書類を大阪のお店まで送って貰うだけです。
厠へと思っていますと、そこへお園さんです。
「お出来になられたのですか。お疲れさんでした。本当に大変なお仕事ですね。ちょっと、お茶でも入れてきます」
「善三郎さん、この包みを金友屋さんへお渡し願います。御寮さんが吉備津様へ案内してくださるそうですから、これから行って来ます。」
と挨拶して、お園さんと連れたって立見屋を出ます。夕陽は西の山際に近づこうとしています。二人の影が石鳥居をくぐって、その向こうの山際まで伸びています。通りにはまだ人影はまばらですが、ヤクザっぽい人が2、3人、そんな二人に姦淫な眼差を送りながら通り過ぎていきます。
「あら、花びらが。・・・・此花が終わったら春がゐんでしまいます。お仕事がお済でしたら、吉備津様にでもご案内しましょうか。時々、うちのお客様に頼まれてご案内することがあるのです」
「ああ、ご案内していただけますか。でも、私はぐずのほうですから書き上げるまでもう少し掛かると思いますが。出来上がったら声でも掛けます」
そんな取りとめのないお昼の二人でしたが、平蔵の胸内に、急に、何か随分昔から知っているような暖かい親しみみたいなものがなんとなく湧いて来て、お日奈さんの「ええひとでーおよめにどう」と、言った言葉を思い出して、顔が赤らむように思えました。
開け放たれた障子戸から入る風は爽やかに吹き来たります。
食事が終わると、再び、机に向かいます。今年の作付けや取れ高見通し、更に、値動きの動静まであらゆる平蔵が歩いて集めた村々の備中綿に関する情報をこまめに書き記していきます。
ちょっとした挨拶言葉の中からでも、綿百姓の持つ、もう何十年と代々積み上げられた冷たいまでに冷徹な彼らの直感的判断を見逃さないよう集めていかなくてはならないのです。
こちらの話とあちらの話が全然異なり、どう判断すればいいのか迷うことがしばしばあるのです。が、そんな時一番頼りになるのは、ちょっとした立ち話し中から集めた情報なのです。往々にして彼らの話には、本当のことがごく限られた場面しかないのです。殆どがうそで固められているといっても過言ではありません。それは、彼らが常に支配者からの厳しい取立てにあっているからです。彼らが生きていくために、真実を語らない事がもっとも大切なの自衛のための生活手段だったのです。村全体、いや国全体とでも言った方がいいのかもしれませんが、百姓たちがみんなしてうその情報を一杯に流し、取立てをいくらかでも少なくすることにしか生き延びる方法がないのです。生きてはいけないのです。それでも役人の目を逃れることが出来ないという悲哀を一杯に背負って生きているのです
そんな百姓の持つ宿命でもある悲哀を平蔵は十分知って生まれてきました。ひょんなきっかけで、この舟木屋での仕事に携わってからもう7、8年にはなるのですが、今でも、その時々の百姓の持つ本当の情報を掴み切ることは出来ないのです。でも、自分の判断の甘さがお店の大損害を生む基になります。それだけ慎重な調査ががいります。そのためには年季も、経験ですが、大切ななります。それは自分の目による判断こそが最も正しいということなのですが、この二つだけではどうしても正しい情報を手に入れることは出来ないのです。経験と感だけではどうしようもない世界なのです、人と人との突っ張り合いなのです。やっぱり最後は人柄が勝負を決めます。
「あのお人はええ人だ」
と、いうことを知ってもらうしか方法はありません。それだけです。人の誠実さなのです。優しさなのです。それが信頼を生み、的確で正しい情報を捕まえることが出来るのです。
「えぇつぁー、連島の百姓の子倅らしいけー我々百姓を騙したり馬鹿にしたりせんど」
という噂話もこの誠実さとともに信頼を勝ち取ってきた原因があるようです。
そのようにして集めた報告のための書類を平蔵は一日がかりで丁寧に書き上げてました。
墨をする音がかすかに響き、障子に映った日の影が段々と、また、広がっていきます。ぼつぼつ街中の喧騒が始まる頃ですが、ここまでは届かないのでしょう静かな初夏の午後です。
平蔵は書き上げた紙をまとめ、もう一度読み返します。ようやく今日の仕事は一段落です。後は、板倉にある飛脚屋の金友屋に頼んで、一日がかりでこさえた書類を大阪のお店まで送って貰うだけです。
厠へと思っていますと、そこへお園さんです。
「お出来になられたのですか。お疲れさんでした。本当に大変なお仕事ですね。ちょっと、お茶でも入れてきます」
「善三郎さん、この包みを金友屋さんへお渡し願います。御寮さんが吉備津様へ案内してくださるそうですから、これから行って来ます。」
と挨拶して、お園さんと連れたって立見屋を出ます。夕陽は西の山際に近づこうとしています。二人の影が石鳥居をくぐって、その向こうの山際まで伸びています。通りにはまだ人影はまばらですが、ヤクザっぽい人が2、3人、そんな二人に姦淫な眼差を送りながら通り過ぎていきます。
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