私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備って知っている  細谷川後編2

2009-02-22 16:23:07 | Weblog
 (歩く会のための資料)番外編
 
 「文学に現れた吉備の中山と細谷川」
  
・古今集       これは藤原佐理の書です。
 まかねふく きひのなかやま おひにせる ほそたにかはの おとのさやけさ     これは承和のおんべのきひのくにのうた
・枕草子(59段) ―清少納言
  〇川は、飛鳥川。大堰川。音無川。七瀬川。耳敏(みみと)川。玉星川。
細谷川。五貫川。澤田川などは催馬楽などの、思はするなるべし。名取川。吉野川。
天の川原・・・
  〇山はをくらやま、三笠やま・、このくれ山、・・・・・ きびのなかやま・・・

・新古今集
   常盤なる 吉備の中山 押なえて 千とせを松の 深き色哉
 


 なお、吉備の中山と細谷川を読んだ歌人は、古今集以来沢山の人が数えられますが、例の百人一首の歌人の中、5人の名前を見ることができます。
まず、始めは、清少納言の父親である清原元輔の歌です。
 1、誰かまた 年経ぬる身を 振り捨てて 吉備の中山 越とすらん        (ちぎりきな かたみに袖を しぼりつつ ・・・・・・)
 次は、前大僧正慈円の歌です。
 2、船とめて 契りし神の ゆかりには 今日も詠る 吉備の中山
    (おおけなく 浮き世の民に おほふかな ・・・・・)
 それから、俊恵法師の歌です。
 3、雪深み 吉備の中山 跡絶えて けふはまかねを 吹や煩ふ
    (夜もすがら 物思ふころは 明けやらで ・・・・・)
 また、あの大納言経信も歌っています。
 4、麓まで 峯の嵐や すさぶらん 紅葉散くる きびの中山
    (夕されば 門田の稲葉 おとづれて ・・・・・・・)
 最後に、あの後鳥羽上皇の歌です。
 5、真金吹く 吉備の山風 うちとけて 細谷川も 岩そそぐなり
    (人もをし 人もうらめし あぢきなく・・・・・・・)
 なお、この歌は「後鳥羽院御集」の第二首目に上げられています。上皇のお気に入りの歌であったらしいのです。
 この他、有名な人の歌もたくさん残されています。
 百人一首の歌人ではないのですが、
   「秋風のたなびく雲の絶え間よりもれいづる月のかげのさやけさ」の顕輔の父親である顕季も歌っています。
  ・鶯の 鳴くにつけても まかね吹く きびの山人 春をしるらん 
 あの小侍従も歌っています。
    ・谷川の 氷の帯や 結ぶらん 音こそ聞かね 吉備の中山
 その他、「読人不知」の歌として大変優れている歌もたくさん見受けられます。その一、二首を
   ・春来れば 麓めぐりの 霞こそ 帯とはみゆれ 吉備の中山
   ・春の来る 気色は空に しるき哉 吉備の小山の 峯の霞に

この他に、時代は下るのですが、木下長嘯子(秀吉の弟)も朝鮮征伐のため九州にいた秀吉の陣に赴く時、吉備津神社に詣でて歌を詠んでいます。
    ・けふぞみる 細谷川の 音にのみ 聞きわたりにし 吉備の中山
    ・とどこほる 細谷川も 打ちとけて けふは春しる 吉備の山人
 藤井高尚の歌
    ・思ひやる 心のうちに 出でにけり わが中山の 山のはの月
    ・露ふかき 谷のさくらの 朝しめり 見し夕暮の 花はものかは
    ・もみじ葉は 谷ふところに かくしたる 千しほの玉の 林なりけり  (この二首は細谷川の山裾の石碑に書かれています)

 なお、吉備津神社の本宮社の社前には「吉備中山細谷川古跡」と書かれた石碑があります。
 この石碑は幕末の弘化三年島根県津和野の人「野之口隆正」という人によって建てられました。この裏面には
       古今和歌集大歌所歌
 真金吹く吉備の中山帯にせる細谷川のおとのさやけさ
 左註に承和のおほむへのきひのくにのうたとあり。このみかとは天長十年のやよひにみくらゐにつきたまひて、そのとし大嘗祭は行ひたまひしなり。そのときの主基方は備中のくににてありけるよし続日本後記に見えたれば、そのおり、大君のみかさの山という、ふるうたをひかへてうたへるものならんかし、ほそたにかはもありて、所のさまよくかなへればなりけん、げにその細谷川はたきつせにて、さやけきおとのいまもきこゆるは、たえてひさしく、といひけんたきにはことたがひて、名のみならずなむ
        弘化三年      野之口隆正


 その他、平安初期の歌謡「催馬楽(さいばら)」の中に

   真金吹く 吉備の中山 帯にせる 
なよや らいしなや さいしなや
   帯にせる はれ帯にせる 細谷川の音のさやけさや
  らいしなや さいしなや さいしなや 
音のさや おとのさやけさ

 と、平安の当時、山陽道の吉備地方で歌われていた歌が、当時、京の都でも流行って、都人の間にしきりに口ずさまれていた歌謡です。やがて、それらの庶民の歌が大宮所の御神歌の中に入っていったのだそうです。更に、それが主基の国の歌として取りあげられ、ついには、古今和歌集にも収められたのです。
 なお、蛇足ですが、この古今集で、細谷川の、次にある歌が
  みまさかや 久米のさらやま さらさらに わがなはたてじ よろずよまでに
 です。念のために。

 付録;   「細谷川の丸木橋について」
「わが恋は 細谷川の丸木橋 渡るに怖き渡らねば 思うお方に逢わりゃせぬ.」という歌が、平家全盛の時代に、京で流行っていたのです。
 この歌を仲立ちにして若き男女の恋が実った物語が、平家物語に出ています。
 平清盛の孫に通盛という一人の貴公子がいました。彼は、当時、禁中第一の美女とうたわれた「小宰相」を一目見て好きになり、しきりに恋文を送るのですが、一向に彼女はなびきません。3年間もの長い間、片思いのままです。その小宰相からはいつまでたっても色よい返事はもらえませんでした。これがだめならと、最後の手紙を家来に届けさせるのです。その手紙に書かれていた歌が
   「わが恋は 細谷川の 丸木橋 ふみかえされて ぬるるそでかな」 と、いう歌でした。この通盛からの手紙に一瞥をくれただけで、「ふん」とばかりに、いつもの通り、ぽんと袂に入れていたのですが、何かの拍子に落としてしまいます。それを彼女のご主人「上西門院」に拾われて、その手紙を見た女院から「女はそんな男ににじゃけんではいけませんよ」と諭されます。、それから、「では私が」と、宰相に代わって、ご丁寧にこの女院は通盛に手紙を書きます。
 その手紙に書いていた歌が「ただたのめ 細谷川の 丸木橋 踏み返しては おちざらめやは」という歌です。
これが契機となって二人は結ばれるのです。
なお、上西門院という女御は崇徳院や後白河法皇の妹なのです。母は待賢門院璋子です。
崇徳院の「瀬を早み 岩にせかるる 滝川の・・・・」という歌の元は、「ゆきなやみ 岩にせかるる 谷川の われても末に あはむとぞ思う」だったと、言われています。
そんなんことを考えると、この谷川はひょっとして、細谷川ではないかという気もします。

 

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