私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備って知っている 13 仁徳朝 ①

2008-10-04 21:57:42 | Weblog
 今日は応神天皇の次の仁徳天皇の時代の吉備についてです。
 この天皇はご存じだとは思いますが、大変民百姓ことをお考えになって政治をされました。
 ある時、天皇が高台に登って遠くを望み(遠望)、民の竈から煙が出ていないことに気付かれます。これは百姓が貧しいからだとお考えになり税を3年間も猶予したのだそうです。思いやりとは、この事です。アメリカ軍のためにするものではありません。念のために
 また、天皇は百姓の生活を豊かにするために土木工事を積極的に推し進め、新田開発をしたり溜め池を作ったりして農業生産の向上に努めます。これら土木開発に大陸からの帰化人の技術を盛んに活用したのです。この時期に活躍した帰化人は秦の始皇帝の後裔が多く、万里の長城を築いた土木技術も日本に伝えられたという。
 彼らの住んだ所は秦、波多、幡多、羽太、葉田、土田、半田など全て「ハタ」と呼んでいます、私の住む名「むかいはた」も帰化人が住んだところだと思います。あの兄媛の葉田葦守もやはり帰化人が住んでいたところだと思います。

 ちょっと横道にそれますが、初めて日本に帰化した秦人が雄略天皇に糸、綿、絹帛を献上した。天皇が着るとそれまでにない柔らかな「ハダサワリ」よかったので、姓を「はた」と賜ったといいつたえがあります。また、機業の機(はた)にちなみ「はた」波多という姓を賜ったともありますす
 
 岡山に半田山がありますが、言い伝えによると、その昔、この山にはつつじや萩などの小木が生い茂っていた山でしたが、帰化人である秦氏の人がこの山に松を数本植えたのがきっかけとなって松の林で覆われた山になったため、この山を「はた」山と呼んでいたのですが、次第に「半田」山になったのだそうです。
 
 このように、吉備には多くの帰化人が住み着き、灌漑や土木などの技術を伝えて、特有な吉備文化を作り上げたといわれています。百済などから従来にはなかった交易という新しい経済活動が吉備国に取り入れられ、グローバルな経済活動がなされ、それによって他の地方より豊かな国になり、経済的に余裕が生れ、造山古墳のような当時の日本一の大きさをもつ巨大古墳を作り上げる力を蓄えることができたのだと思われます。
 百済からの渡来人である温羅という大変な悪鬼が吉備津彦命と一緒に吉備津神社に祭られているのは、もしかして、いくら悪事を働いて人々を困らせたにせよ、温羅が持ち込んできてくれた土木や経済等の先進技能が吉備が大和に並ぶ強大な大国にしてくれた。温羅の御蔭であることを当時の吉備人がよく知っていたのではないでしょうか。そのために三備一宮である吉備津神社にわざわざ祭ったのではとも・・・。 


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