私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

おせん 39

2008-05-31 10:51:37 | Weblog
 お園は「まあ、そんなことできません」と、断りますが、母親のおよしも、しきりに「是非、そうしておくれやす。お願い申します」と、懇願するように言います。
「では、一晩なりともそうさせて頂きます」
 と、不承不承に言うお園です。
 そうなりますと、今まで怪訝な顔をしていたお千代も、何か急に生き生きとして、お園のために色々と気を使います。
 「控えの間に侍らせて頂きます」と、言うお園をしりめに、おせんのと並べて布団も敷きます。
 およしもしばらく、何やかやと指図するおせんの姿を黙ってじっと眺めていましたが、奥向きの事もあるのか、「よろしゅうお願いします」と、部屋から出て行きます。
 床に入っても、まだ、おせんの「どうして」というおしゃべりが続きます。
 長い回廊をころころと転がり落ちていく毬を懸命に追いかけ少女が、その毬とともに何処へともなく消えていった話には、特に、関心があったのでしょう、何回も何回もどうしてどうして、と、聞いていました。
 「女の子は何処へ行きはったんでっしゃろか。一番好きなものをなうした時ぐらい悲しいことはおまへんよって、不思議な神さんでおすな」
 おせんの声は消え入りそうにか細く、殆ど涙声に代わっていました。
 「きっと、その女の子も悲しかったのでしょう。その声が今でもお竈殿の中から
聞こえ、それが吉備津様の比翼のお屋根に伝わって、今度はそこから大空の果てにまで届けとばかりに飛び散るように広がっていっているのだそうです。どこにもない不思議な不思議な神様です。この吉備津様は・・・・」
 「かわいそうな女の子。・・・・そのお竈の鳴る声を一度聞いてみとうおすな」
 夜の帳が一段と深まってきます。行灯の光がゆらゆらと部屋の中に揺らいで、ゆったりとした初夏の宵の静寂が流れていきます。
 と、突然に、懸けている布団の中に、顔を埋めたかと思うと、「比翼。・・・うううう」と、いう、おせんのうめきに似た声が流れてきました。それは、今まで、自分の心の中で一心に耐えに耐えてきた悲しみが、これ以上耐え切れなくなって、一度に堰を切って流れ出したかのような悲痛な呻き声でありました。
 この世の中にあるのかないのか分らないような悲痛な響きが障子に跳ね返って、部屋全体に覆いかぶさるように、お園には聞こえるのでした。
 「どんなことがあったの」と問いかけたいのは山々でしたが、自身の胸の中で自分自身と戦っているおせんの姿を見て、
 「どうぞ、自分で自分に打ち勝ってくださな。それが、これから自分が自分で生きていくということです、おせんさん」
 と、心の中につぶやきます。
 でも、まだ、「どうしました」と言う、問いかけはしません。まだまだ時間には余裕があるようです。自分の経験からして、まだ、お園から問いかける時にはなっていないように思られました。待つことの大切さを思いながら。
 「おせんさんがその思いを自ら言うまでいつまでも待つのですよ、それが、今、お園のできることの一番大切なことなのですよ」
 と、ほの明るい部屋の天井から、突然に、祖母の凛々しい声がお園には聞こえてきました。
 それから、どれだけ時間がたったのでしょうか、五月闇が辺りを流れます。
 「お園さん。聞いてくれはりますか」
 おせんは、布団の上に座りながら、きっぱりと言いました。


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