私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

秀忠の娘勝子の嫁入り

2011-10-16 09:48:17 | Weblog
 秀忠の長女が例の千姫です。母は江です。其の千姫が後に本多忠刻に嫁いで生まれたのが勝姫(池田光政の妻)ですが、ここに出る勝姫はその勝姫ではありません。千姫の直ぐの妹の勝姫です。彼女は慶長16年(1611年)、丁度ビスカイノが日本に来ていた時、従兄弟である松平忠直と結婚しています。

 その結婚について、ビスカイノが書いています。

 「年齢十二歳なる殿下の一女が皇太子(秀忠)の長兄の一子なる従兄に嫁するに・・・・」とあります。更に続けて、その勝姫が駿府にいた祖父の祝賀を受けるために駿府まで行っています。その模様についても、

 「駿府の宮廷に向ひしが、調度並びに武士及び僕婢の随従者非常に多く、付添の処女及び侍女四十人は駕籠に乗り、駕籠は甚だ好き金銀の装飾あるものにして、許嫁の女の乗りたるものは特に美麗なりき。僕婢其他の人随行する者四千人を超え、馬五百余頭の衣服調度あり。故に之を超えたる支度を以って旅行する王妃他にあるべしとは考えらず、而も極めて静粛にして、何人も随行する者なきが如くなりき。」

 と。
 この行列は、徳川家の将軍家としての威信をしめすための婚礼報告行列であったことは言うまでもない事ですが、その行列を見たのか聞いたのかわ知りませんが、当時、世界唯一の文明国だと自尊していたビスカイノ達イスパニアの人々の目には、自分たちの生活とあまり違わないような、むしろそれ以上のような、金銀をふんだんに使った調度品などを見て、その豪華さに、聊かな驚きを以って見て、その国力の大きさに対して脅威すら感じさせられたのではないかとも思われます。
 この行列は、そのような外交手段としての行列ではなかったのでしょうが、たまたまでしょうが、以後の日本国に対するヨーロッパの人達の見方が、所謂、土人的な見方ではなく、文明人として、ヨーロッパとは何が違った特別な意味での、異国人としての尊敬の念を以て見られるようななった原因を作ったのではないかと思われます。四千人を超える人の行列が人がほとんどいないくらいな静粛なものであったと感心しているのです。こんな静粛さを生む原因は政治体制に感心しているのです。国力の大きさを感じていたのです。

 之は、ヨーロッパでジャポニズムの流行が見られる200年も前の1611年の話です。

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