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命のパンを分け与える

2016-01-24 16:54:56 | 教会案内
礼拝宣教  ヨハネ6・1~15

本日はヨハネ6章より「命のパンを分け与える」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。実は2年前の1月にこの全く同じ所から「命のパン」という題で宣教がなされております。もうその時にお話を聞かれた方は「ああまたあの話か」とお思いになるかも知れませんが。けれども聖書の言葉は生きていますから、同じ個所でもその時その時に響いてくるメッセージがあるのですね。
今回ヨハネによる福音書を始めから読んできまして知らされるのは、イエスさまが世に示された「しるし」の数々です。ヨハネ福音書の著者は21章の最後のところで「イエスさまのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」(21章25節)と締めくくっています。まあ、このイエスさまのなさったこととは「しるし」なんですよね。それほどイエスさまのなさった「しるし」にある意味ヨハネの著者はこだわりをもっていたと言えます。本日は5000人に食べ物を分け与えられたイエスさまの「しるし」からヨハネのメッセージに聞いていきたいと思います。

まず6章の1節冒頭に「その後」とありますが、それは先週読みましたイエスさまが「役人の息子をいやされた」というしるしや、前の5章の「ベッサイダの池で病人をいやされた」そのしるしの後、2節にあるように「大勢の群衆がイエスの後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである」と続いているのです。
つまり群衆は、イエスさまが病人をいやされたそのしるしを見て、イエスさまを向こう岸まで追ってきたということが強調されているのです。群衆がいかにそのしるしに心ひかれ期待を寄せていたかということが分かります。その中には病気を抱えていたり、身近な病人を何といやして欲しいと乞い願っていた人たちも多くいたことでしょう。
イエスさまはこのような人々の必要にもお答えくださるお方でありましたけれども、ここでは病人のいやしはなさらず、ある一つの「しるし」を行われるのです。それが5000人もの人たちに食べ物を分け与えられるという「しるし」であったのです。

先週「奇跡としるし」の違いについて申しました。奇跡は文字通り不思議な業や超常現象というべきものです。まあそれ自体が目的ともいえるものです。一方、イエスさまがなさったしるしは、英語でサイン、独語でツァイヘンと訳されるように、証明、合図や目印、兆候や前兆のようなものだというのです。つまりしるしとは、ある目的のために示されるものだということですね。ですから今日の「5000人の食べ物」のしるしも、本当に大きなある目的のためのサイン、合図や前兆として行われたのですね。ではそれはどういう目的のためのしるし、サインかということでありますが。6章6節に、イエスさまは「何をしようとしているか知っておられたのである」と記されています。それは「5つのパンと2匹の魚」によって5000人もの人々が満たされるというそのしるしを通して、イエスさまが成し遂げようとしているその目的が明らかにされる。そのことを知っておられたということです。その目的については後ほど詳しくお話するとしまして。

さて、イエスさまはフィリポを試みられて、「この人たちに食べさせるためには、どこでパンを買えばよいだろうか」とお尋ねになります。フィリポはその質問に対して、「めいめいが少しずつ食べるためにも、2百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」とまともに答えます。1デナリオンは当時の1日分の賃金に価するそうで、それが5千円だとしたら、100万円以上ということになります。まあそのようなお金を弟子たちが持っていようはずはありませんし、それだけの分の食糧を販売し調達できるような所などむろんなかったでしょう。何とも答えようがないというのがフィリポの反応であったのですね。又、その隣にいたのか、弟子のアンデレがイエスさまに、「ここに大麦のパン5つと魚2匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役に立つでしょう」と口を挟みます。しかしこのアンデレの答えも、さほどフィリポと変わるものではありませんでした。けれども、ここでイエスさまは、5千人もの人々の食物として5つのパンと2匹の魚が、少なすぎるとは一切おっしゃらなかったのです。「足りない」とか「少なすぎます」と言ったのは弟子たちでした。
そこで「イエスさまは、そのパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた」とあります。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々は満腹した」と記されています。何とそこにいるすべての人が欲しいだけ分け与えられ、そうしてみな満たされたというのです。

このエピソードはマタイ、マルコ、ルカの福音書にもそろって記されていますが、このヨハネ福音書に見られる特徴がいくつかございます。
それはたとえば、イエスさまご自身がパンと魚を座っていた人たちに直接分け与えられたという点であります。他の3つの福音書では5000人をグループにして、お弟子たちがそれを分け与えたことになっています。けれどもここでは、その感謝の祈りを唱えて祝福されたパンと魚をイエスさまご自身が飢え渇きをおぼえていた群衆の一人ひとりの必要に応えるかのようにそれを分け与えていかれる、という光景が目に浮かんでまいります。
 イエスさまが私たち個人個人の具体的な飢え渇きを知り、応じてくださっているということは本当にうれしく読まされます。私たちが生きるための必要について主はご存じまんですね。けれどもそれはしるしに過ぎません。始めにお話したイエスさまの本来の目的、そこに今日の物語の最も豊なメッセージがあるのです。それこそは、イエスさまご自身が「命のパン」としてこの世界においで下さった、というそのことであります。
イエスさまは飢え渇いていた多くの人々を青草の上に座らせ、その一人ひとりにパンを分け与えられました。それは確かに肉の必要を満たすパンでありました。しかしそれらは一時的なものであり、どんなにお腹いっぱい食べても空腹はまたやってきます。申命記8章には「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」と記されていますが。イエスさまご自身がその生ける神の言であり、世の人を贖い生かすために十字架上で裂かれた「命のパン」であるのです。
4節には、このしるしを顕わされたのが「ユダヤ人の祭りである過ぎ越祭が近づいていた時である」と記されていますが。過越祭とは、先祖のイスラエルの民が出エジプト、エジプトの奴隷状態から解放するために主が行われた救いの御業をいつまでも忘れることなく記念としておぼえる祭です。その折に、小羊をほふりその血をイスラエルの人々は各々の家のかもいに塗ることで、災いと滅びから免れ、出エジプトする事ができたんですね。意味じくもその事を記念しておぼえる過越祭の前にイエスさまはこの5000人に食べ物を与える「しるし」を行われ、そのことを通してご自分こそ「命のパンである」という本来の目的を明らかになさるのですね。私たち人間が罪に滅びることのないように、イエスさまは肉を裂かれ、その命さえ与え尽くしてくださった人を根底から生かす「命のパン」なのです。その霊的食物に与る事によって私たちは滅びを過ぎ越し、神さまとの真の平安、魂の救い、永遠の命に与る事がゆるされているのであります。

さて話は変りますが、イエスさまがフィリポを試したのは、彼が世の論理や計算を頼みとするのか、それとも主イエスを頼みとするのか、ということにありました。実際私たちには持っているもの持っていないものがあり、能力にも限度があります。「ありもしないものを求められても」というのが私たちの現実でしょう。けれどもここで主が期待しておられることは何でしょうか。主イエスは私たちが何かを持っている、持っていない。できる、できない、ということを重要視しておられるのではなく、主ご自身がなさろうとしていることに、私たちが如何に信頼をし、どう応えていくかをご覧になられているということです。それこそが「5つのパンと2匹の魚」の信仰であります。フィリポをして、私たちも又、弱さや足りなさをも抱えながら、なお主イエスさまに信頼をおいているか。主の御声に如何に応えていこうとしているのか、その信仰が試されているのではないでしょうか。そのように主に信頼し期待して行く人に、主は遥かに思いを超えたみ業を顕わしてくださるのです。

さらに12節では、「人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、『少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい』」と言われた、とあります。これもまたヨハネ福音書だけに記されているのですが。ここでイエスさまは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパン屑を集めなさい」と、そのなすべき働き、務めを指示されるのです。
「少しも無駄にならないように」というのは、主イエスが命のパンを分け与えられるためにご自分のみ体を裂かれ、命を差し出された貴い犠牲と恵みが少しも無駄にならないよう、活かされるように、との強い願いが込められているように思えるんですね。
残りのパン屑というと残り物、残飯という感じがしますが、そうではありません。そのパン屑が尊い主イエスの裂かれたみ体であると考えたとき、それは全き命のパンであります。主はその命のパンの恵みがまだ行き亘っていないあらゆる人たち、主の福音がまだ届いていないところに迄も届けられていくための宣教や伝道を願っておられたのですね。ですから弟子たちに、残りのパン屑を集めるという働きを通してそのことを象徴的に示し、託されたのです
弟子たちがそのパン屑を集めると、それが12の籠いっぱいになった、と記されています。この12の籠というのは、12弟子たちが旅のために携えていた物入れのようなものであったらしいのですが。そこには彼らの物だけでなく、彼らがイエスさまと共に宣教の旅において、弟子として経験した主の御業と教えがいっぱい詰められていたんではないでしょうか。12はイスラエルの12部族の数ですから、まさにその枠を超えるる世界の至るところにまで、主イエスの命の糧が分かち合われていくようにと、主は弟子たちにお示しになられたのです。そうして命のパンは膨らみ、味合われ、今や世界中の人たち、そして私たちもこうしてその命の糧に与らせて戴いているわけでございます。

最後に、イエスさまがこの5000人の人々に自らパンを分け与えられたしるしは、御自身のみ体を裂き、すべての人々の命を贖う本来の目的をお示しになるためであったこと。又、そのイエスさまを主、キリストと信じることが、命のパンを頂くということである、ということを確認したいと思います。

日毎に命のパンを頂き、この命のパンに与る人々が起こされていくためには、イエスの弟子、主の働き人が必要です。同じヨハネ6章27節でイエスさまは「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」といわれています。
そのようにイエスさまの弟子となるよう、主の御救いに与かった私たち一人ひとりもも又、招かれているのではないでしょうか。
主イエスの命のパンに日毎に与りつつ、主の弟子としてそれぞれが遣わされた場所で、それをどう隣人と分ち合って生きるか。それが今日私たちに示される主のメッセージではないでしょうか。

6章35節のみ言葉を本日の宣教を閉じるにあたりお読みします。
「イエスは言われた。『わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない』。」
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