
天気予報どおり、雪の休日となってしまいました。
やむなく、押入から何枚かのDVDを引っ張りだしてきて、ノンビリと過ごしています。
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さて、我らがオフ会のオリジナル・メンバーであるdawase86さんが、ご自身のブログで荒井修光さん(我孫子高校-早大-日本ハム)を取り上げていらっしゃいました。
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荒井さんの球歴は、dawaseさんがブログで詳しく紹介されている通り。
荒井さんのプレーの記憶を辿っていると、どうやっても優勝まで届かない当時の早稲田の我慢の時代を思い出してきてしまいます。
荒井さんは、甲子園に出場し、高校ジャパンにも選ばれた一流投手として、鳴り物入りで早稲田に入学してきました。
早大入学後、一年生でさっそく2勝をあげて、「さあ、これから」と思った矢先の二年生の春に、石井連蔵監督によって捕手にコンバートされてしまったのですから、あの時は早稲田ファンの誰もがビックリ仰天させられたものでした。
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私は、プロ入り直後の荒井さんから、手書きの封書をいただいたことがあります。
まだ東京を本拠地としていた日本ハムの一員となった荒井さんが、「日本ハムのシーズン席を購入してください」と、切々と訴える文面でした。
早稲田の卒業生名簿を見ながら、恐らく何百枚も書かれたのだと思います。
新人選手の頃から、球団経営に対しても一所懸命であった荒井さん。
彼が、現役引退後も球団スタッフとして大活躍されているのも納得です。
以前にも書きましたが、斎藤佑樹投手は、立派な先輩のいる良い球団に入りました。
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最後に、荒井さんが大学四年生であった1995年(平成7年)の頃の東京六大学を振り返ります。
我らが早稲田は、石井連蔵さんが勇退されて、「マックス」佐藤さんが新監督に就任。
ご存知のとおり、佐藤さん(天理高校)は、今の岡村猛監督の同期です。
当時の早稲田の布陣です。
1三澤(3年、帝京)
2荒井(4年、我孫子)
3中村壽博(3年、西日本短大付属)
4峯岡(3年、天理)
5杉本(2年、早実)
6田中(4年、三本松)
7篠原(3年、広陵)
8平野(4年、早実)
9大森(4年、主将、天理高校)、矢口(2年、木更津)
投手部門が三澤くん1人を頼みとするところが苦しいかったですが、野手はなかなかの顔ぶれでした。
いま思えば、スポーツ推薦制度(いわゆるスカウト入試)のない時代、一浪・二浪での入学が珍しくない時代に、ここまでの陣容を整えるまでには関係者の大変なご苦労があったことでしょう。
斎藤佑樹投手の入学以降に東伏見においでになるようになったファンの方の中に、「佐藤監督の時代? 早稲田は弱かったんでしょう?」と、当時の事情も知らずに簡単に言い放つ人がいるのは、残念なことですし、本当に悔しいです。
全国に名を轟かす有望選手がせっかく早稲田を受験してくれても次々に不合格となってしまう、早稲田スポーツ受難の時代でした。
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荒井さんと同期で、当時の東京六大学を代表するスター捕手であった、慶応の高木大成選手(桐蔭学園-慶応・主将-西武ライオンズ)です。
当時の慶応は、後藤寿彦さん(岐阜高校)が監督。
高木主将は、1学年下の高橋由伸選手(桐蔭学園-慶応-巨人)と共に、アマチュア野球屈指の強力打線を形成していました。
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こちらは、法政の主務であった岡本さん。
現在はベースボールマガジン社に勤務されていて、大学野球の選手たちに関する記事を、温かい眼差しで書いてくださっています。
当時の法政は、「小さな大投手」山中正竹さんが監督。
伊達投手(法政二高)、真木投手(東筑紫学園)、副島内野手(桐蔭学園)、平馬遊撃手(横浜高校)ら、いかにも法政らしいスケール感のある選手たちが揃っていました。
やむなく、押入から何枚かのDVDを引っ張りだしてきて、ノンビリと過ごしています。
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さて、我らがオフ会のオリジナル・メンバーであるdawase86さんが、ご自身のブログで荒井修光さん(我孫子高校-早大-日本ハム)を取り上げていらっしゃいました。
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荒井さんの球歴は、dawaseさんがブログで詳しく紹介されている通り。
荒井さんのプレーの記憶を辿っていると、どうやっても優勝まで届かない当時の早稲田の我慢の時代を思い出してきてしまいます。
荒井さんは、甲子園に出場し、高校ジャパンにも選ばれた一流投手として、鳴り物入りで早稲田に入学してきました。
早大入学後、一年生でさっそく2勝をあげて、「さあ、これから」と思った矢先の二年生の春に、石井連蔵監督によって捕手にコンバートされてしまったのですから、あの時は早稲田ファンの誰もがビックリ仰天させられたものでした。
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私は、プロ入り直後の荒井さんから、手書きの封書をいただいたことがあります。
まだ東京を本拠地としていた日本ハムの一員となった荒井さんが、「日本ハムのシーズン席を購入してください」と、切々と訴える文面でした。
早稲田の卒業生名簿を見ながら、恐らく何百枚も書かれたのだと思います。
新人選手の頃から、球団経営に対しても一所懸命であった荒井さん。
彼が、現役引退後も球団スタッフとして大活躍されているのも納得です。
以前にも書きましたが、斎藤佑樹投手は、立派な先輩のいる良い球団に入りました。
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最後に、荒井さんが大学四年生であった1995年(平成7年)の頃の東京六大学を振り返ります。
我らが早稲田は、石井連蔵さんが勇退されて、「マックス」佐藤さんが新監督に就任。
ご存知のとおり、佐藤さん(天理高校)は、今の岡村猛監督の同期です。
当時の早稲田の布陣です。
1三澤(3年、帝京)
2荒井(4年、我孫子)
3中村壽博(3年、西日本短大付属)
4峯岡(3年、天理)
5杉本(2年、早実)
6田中(4年、三本松)
7篠原(3年、広陵)
8平野(4年、早実)
9大森(4年、主将、天理高校)、矢口(2年、木更津)
投手部門が三澤くん1人を頼みとするところが苦しいかったですが、野手はなかなかの顔ぶれでした。
いま思えば、スポーツ推薦制度(いわゆるスカウト入試)のない時代、一浪・二浪での入学が珍しくない時代に、ここまでの陣容を整えるまでには関係者の大変なご苦労があったことでしょう。
斎藤佑樹投手の入学以降に東伏見においでになるようになったファンの方の中に、「佐藤監督の時代? 早稲田は弱かったんでしょう?」と、当時の事情も知らずに簡単に言い放つ人がいるのは、残念なことですし、本当に悔しいです。
全国に名を轟かす有望選手がせっかく早稲田を受験してくれても次々に不合格となってしまう、早稲田スポーツ受難の時代でした。
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荒井さんと同期で、当時の東京六大学を代表するスター捕手であった、慶応の高木大成選手(桐蔭学園-慶応・主将-西武ライオンズ)です。
当時の慶応は、後藤寿彦さん(岐阜高校)が監督。
高木主将は、1学年下の高橋由伸選手(桐蔭学園-慶応-巨人)と共に、アマチュア野球屈指の強力打線を形成していました。
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こちらは、法政の主務であった岡本さん。
現在はベースボールマガジン社に勤務されていて、大学野球の選手たちに関する記事を、温かい眼差しで書いてくださっています。
当時の法政は、「小さな大投手」山中正竹さんが監督。
伊達投手(法政二高)、真木投手(東筑紫学園)、副島内野手(桐蔭学園)、平馬遊撃手(横浜高校)ら、いかにも法政らしいスケール感のある選手たちが揃っていました。
また宇和島東出身でその後日本生命に進んだ松瀬遊撃手も、主将を務めた4年時に何度かマウンドに上がっていると思います。
三澤投手入学前の織田投手、また織田投手卒業後の三澤投手も土~月の三連投なんて珍しくなく、本当に投手のやりくりが大変な時代であったとともに、三澤投手らのタフさに驚いたものです。
昭和6年には投手で出場
早慶戦では3連投し早稲田の勝利に貢献しました
篠原さん,峯岡さん,中村さん,の推薦組野手強力トリオは,このころから佐藤監督の抜擢を受けて活躍した,という記事を当時の早稲田スポーツで読んだ記憶があります。
ショートの田中さん,センターの平野さんは,たたきあげの渋い好選手だったと記憶しています。
大森さんは,一年生のときいきなり首位打者を獲得して注目されたとか。
矢口さんは,このころ立教戦で大爆発し,打撃開花したと思います。規定打席に到達しなかったため,惜しくも三冠王を逃したのではないかと記憶しています。杉本さんは,早実出身の友人によると,高校時代から運動神経抜群だったとか。結局定位置を獲得できなかったのが惜しまれます。
明治には,当時2年生に川上憲伸投手がおり,常に優勝争いをしていたイメージがあります。
立教は,この前年までエースとして君臨していた川村投手が抜けて苦労していたイメージがあります。
東大は,93年,94年ころ活躍していた高橋投手のイメージが強いです。
ブログをリンクして戴き、ありがとうございます。三澤、中村、峯岡、篠原各選手の入学。スカウト制度がなかったこの時代、野球部から4人の推薦合格は初めての快挙。大いに期待したことを覚えています。練習会では三澤投手が注目度NO1でした。矢口選手も大きな当たりを飛ばしていました(一浪後入学)加老戸選手もシュアーな打撃でした(一浪後入学)明治に行った野上選手も小柄ながら軽快な守備でネット裏を騒がせていました。この年の早大練習会は質量ともに凄かったことを覚えています。
荒井さんと高木大成さんに加えて、明治の野村克則さんがドラフトで指名されて、同一年に六大学から捕手が三人指名されたと話題になりました。
ロッキーさんが書いていらっしゃる矢口さんですが、立教戦での1試合8打点は今でも1試合での最多打点になっています。
また幻の三冠のことですが、プロならば三冠王になっていたんですよね。
このときの矢口さんは規定打席に3打席(?)足りずに首位打者を逃しました。プロの規定では規定打席に足りない分が全て凡退の場合の打率がトップならば首位打者になります。このシーズンの矢口さんはそれに当てはまっていましたが、アマチュアの規定ではあくまで規定打席に達していなければ首位打者の資格がないため首位打者になれませんでした。
矢口さんについては、豊田泰光さんが週ベのご自身のコラムでそのアーティストとしての素質を絶賛していらっしゃったことが強く記憶に残っています。
当時の社会人が金属バット使用だったことが惜しまれます。
杉本さんは1試合3本塁打のタイ記録を持っています。
世代は若干下がりますが、梅沢選手などもおり、こと長距離砲に関しては現在よりも充実していたかもしれませんね。
「嫌だな、早稲田ファンとか威張ってて伊達の三連投知らないの?」
「それ、最近?」
「昭和6年(-.-;)」
「…………。」
という笑い話のネタに使いますが、その話題がすぐ出るのはやはりこのブログは深い………。
私を我が子のように可愛かってくれた、マンドリン楽部代二代OB会長(昭和17年12月25日、クリスマスの日に繰上卒業、故人)は「子供の頃、伊達の三連投は雑誌で読んだ」とおっしゃってました。
ちなみにこの方、石井藤吉郎さんと仲良しでした。高橋ユニオンズの監督をした笠原さんもご友人でした。
懐かしいです……(少し涙)。