
今日は、朝からお腹の具合が悪く、やむなくアメフト応援を断念いたしました。
試合の方は、応援に行かれたenjinさんから、残念ながら法政に敗れたとお知らせをいただきました。
私は自宅で正露丸を飲みながら、先日の稲門倶楽部百年記念事業でいただいた資料を、改めて読み直しました。
私が最も懐かしく感じたのは、現在は図書館が建っている場所にあった安部球場に関する何枚かの写真です。
ここでは、三塁側観客席から打撃練習を眺める風景を捉えた一枚を紹介させていただきます。
グラウンドで行なわれる厳しい練習、それを眺める観客席に流れるゆったりした時間と空気、グラウンド坂を挟んでそびえ立つ本部キャンパスの校舎群。
この写真からは、当時の早稲田野球ファンの多くが共有した世界が甦ってきます。
野球部の練習風景が、大学での日常生活に溶け込んでいる時代でした。
この写真には「授業の合間を縫って球場に駆け付け、練習を見守る学生たち」との説明文がついています。
ただ、授業時間の真っ最中でも、観客席に座っている学生が少なくなかったと、私の経験から補足させていただきます。
(^^)v
安部球場は、1902年(明治35年)の竣工。
その85年後、1987年(昭和62年)に行なわれた全早慶戦を最後に取り壊されました。
その後、グラウンドの下から大規模な遺跡が発見されて、工事が一時ストップするというハプニングも。
その全早慶戦の参加メンバーを記します。
私の学年からは、北口勝久くんが最年長OB選手として参加していました。
私は仕事のために観戦できず、今でも本当に残念な思いです。
監督:飯田修(高松一高)
助監督:亀岡偉民(作新学院、旧姓:小倉)
主将:江上光治(池田高)
主務:菊地良仁(静岡高)、新井岳彦(早実)
石原一智(早実)、田宮實(春日丘高)、阿久根謙司(早実、OB)、河本栄樹(滝川高)、加藤正樹(PL学園)、水口栄二(松山商業)、石井浩郎(秋田高、OB)、向田真也(太田高)、大久保宏紀(松本深志)、池田幸弘(帝京高)、岩本兼慶(鎌倉学園)、佐々木孝一(小倉高)、花島佳克(境高、旧姓:戸田)、田中淳裕(滝川高)、小宮山悟(芝工大柏)、高木健一(越谷高)、相田武徳(早実)、佐藤雄樹(早稲田高、OB)、広田徹(新津高)、北口勝久(天理高、OB)、今野一夫(大船渡高)、芦川敦彦(旭川北高)、応武篤良(崇徳高、OB)、向田佳元(前橋工業、OB)
試合の方は、応援に行かれたenjinさんから、残念ながら法政に敗れたとお知らせをいただきました。
私は自宅で正露丸を飲みながら、先日の稲門倶楽部百年記念事業でいただいた資料を、改めて読み直しました。
私が最も懐かしく感じたのは、現在は図書館が建っている場所にあった安部球場に関する何枚かの写真です。
ここでは、三塁側観客席から打撃練習を眺める風景を捉えた一枚を紹介させていただきます。
グラウンドで行なわれる厳しい練習、それを眺める観客席に流れるゆったりした時間と空気、グラウンド坂を挟んでそびえ立つ本部キャンパスの校舎群。
この写真からは、当時の早稲田野球ファンの多くが共有した世界が甦ってきます。
野球部の練習風景が、大学での日常生活に溶け込んでいる時代でした。
この写真には「授業の合間を縫って球場に駆け付け、練習を見守る学生たち」との説明文がついています。
ただ、授業時間の真っ最中でも、観客席に座っている学生が少なくなかったと、私の経験から補足させていただきます。
(^^)v
安部球場は、1902年(明治35年)の竣工。
その85年後、1987年(昭和62年)に行なわれた全早慶戦を最後に取り壊されました。
その後、グラウンドの下から大規模な遺跡が発見されて、工事が一時ストップするというハプニングも。
その全早慶戦の参加メンバーを記します。
私の学年からは、北口勝久くんが最年長OB選手として参加していました。
私は仕事のために観戦できず、今でも本当に残念な思いです。
監督:飯田修(高松一高)
助監督:亀岡偉民(作新学院、旧姓:小倉)
主将:江上光治(池田高)
主務:菊地良仁(静岡高)、新井岳彦(早実)
石原一智(早実)、田宮實(春日丘高)、阿久根謙司(早実、OB)、河本栄樹(滝川高)、加藤正樹(PL学園)、水口栄二(松山商業)、石井浩郎(秋田高、OB)、向田真也(太田高)、大久保宏紀(松本深志)、池田幸弘(帝京高)、岩本兼慶(鎌倉学園)、佐々木孝一(小倉高)、花島佳克(境高、旧姓:戸田)、田中淳裕(滝川高)、小宮山悟(芝工大柏)、高木健一(越谷高)、相田武徳(早実)、佐藤雄樹(早稲田高、OB)、広田徹(新津高)、北口勝久(天理高、OB)、今野一夫(大船渡高)、芦川敦彦(旭川北高)、応武篤良(崇徳高、OB)、向田佳元(前橋工業、OB)
見に行ったものです。
1.練習を観ながら飲んだり食べたりした記憶が
ありません。当時コンビ二は完全になかったと思いますが
自動販売機もなかったかもしれません。
2.当時は練習を観る女性の人も少ない時代でしたが、ある日若く素敵な女性が来られて私の横に座っていたのですが、知人が「Aはいつまでたっても
駄目だ」とか批判を大きな声で始めたらその女性の
方が急に悲しい表情を見せたので、はっと思い私が
急いで違う話題に変えたことがありました。A選手のフアンかそれ以上の人だったようです。
3.関西の同志社野球部が試合にきてそれも午前中
練習して、さあ昼食だというとき一年生が遠慮して
最後まで残っていたら渡辺監督が「早く行きなさい」と声をかけたのに驚きました。監督が一年生に
直接声をかけるのかと、やさしい監督でした。
4.ヤクルトや阪神で活躍した広沢さんの同期の
竹田投手が安部球場で投げたのを記憶しています。
新人戦がこの安部球場で行われたと思います。
理由はよく覚えていません。
5.高校野球の名監督で早稲田OBの蒲原監督が
千葉の印旛高校を率いて早稲田二軍と試合をして
確か早稲田が辛勝した記憶があります。
この写真、ほんと懐かしいです。ここに自分も
いたんですね。そして、この角度。この眺めが
安部球場の思い出です。新入生(下級生)が
こっぴどく上級生に怒られていたり、監督から
猛ノックを受けて倒れ込んだり。ありのままの
早大野球部を見ることが出来ました。
球場向こうに見える校舎もいいですね。
最後の安部球場出場選手は同年代だけにみんな
よく覚えています。OBでは向田投手の華麗な
アンダーハンドが印象に残っています。
安部球場誕生についての拙文です↓
http://dawase86.exblog.jp/5857594/
早稲田が勝っています。
よくテレビに出てくる人でしたが
実はアマチュア野球通で有名で野球雑誌にも書いていました。その井上さんが安部球場にきてそばに座ったので話しかけたら「あの投手はどういう選手か」と大型左腕投手の深沢
さんのことを尋ねてきて「彼は静岡商時代は新浦二世といわれました」と答えたことがあります。神宮でもよく見かけた方です。
2.観客のほとんどが素人なのに早実
で甲子園にでた方がいてさすがに皆
一目を置いていました。ただ甲子園でエラーを連発して駄目な内野手だったと謙遜する人で早実の選手を
心配していました。
研修旅行終了後、3日ほど東京に残りあちこちと回っていた時でした
安部球場では関西の大学とのオープン戦が行われていました
中村勝主将の時のチームでした
望月、田中伸、金子と野手陣には豪華メンバーが揃っていました
校舎は、15号館でしょうか?私の受験会場でした。
一番最初に、安部球場に来たのは、その前日の受験会場下見の帰りでしたが、とても感動したのを覚えています。
大学時代は、理工学部だったので、”授業の合間にちょっと寄る”距離ではありませんでしたが、休講の時など、駆けつけたものです。
体育実技(当時は、必修科目でしたよね!)では、2年の時に軟式野球が当たり(抽選でした、1年次はハズレ)、憧れの安部球場の土を踏むことができました。マウンドにも上がり、感激で震えが止まりませんでした。
体育実技のバスケットは、伊藤順蔵先生に教えていただきました。練習試合の最中に、伊藤先生の大きな声が「ストップ!その場を動くな!」。生徒の一人が、コンタクトレンズを落としてしまい、全員で広い記念会堂の床をなめる様にして探し出した事を思い出しました。
今秋も、神宮球場・早大学生応援席で、毎試合の様に、お元気なお姿を拝見いたしましたが、そのたびに、あの記念会堂での出来事が思い出されます。
もう一つの、必修科目・保健理論では、小さなエース道方投手と同じクラスでした。
懐かしい写真が、30数年前にタイムトラベルさせてくれました。
P.S.
今は、体育実技や保健は必修では無いようですね。
様々な思い出話をお寄せいただき、本当にありがとうございます。
さて、体育の授業についてですが、私は文学部キャンパスの記念会堂裏にあったグラウンドを使ったソフトボール、軽井沢のスケートリンクを使ったアイススケートを選択しまして、そのスケート合宿の引率が伊藤順蔵先生でした。
※同部屋の同じ一年生に、後にフジテレビのスポーツアナウンサーとなりプロ野球ニュースで活躍した近藤雄介くん(県横須賀高-政経学部)がいました。
また、1978年の春、中屋主将の野球部が米国キャンプを行なった際の引率も伊藤先生でした。
昔から豪快な飲みっぷりの伊藤先生ですが、現在もなお、私などが足元にも及ばない酒量を誇っていらっしゃいます。
申し訳ない話ですが、法学部の先生たちのお顔はあまり憶えていません。
でも、体育の先生たちは妙に良く憶えています。
(*^_^*)
食料事情が悪い時代だったので、浅草に自宅のある荒川さんは、入寮せずに自宅で食事するように指示されていました。
ある日、安部寮の一室で先輩部員にコッテリ説教されて、「もう退部しよう」と思いながら帰宅しようとしたら、その様子を察した飛田先生から「博、バカになれ」と慰留されて、退部を思いとどまったそうです。
軍隊帰りの先輩部員がゴロゴロしている時代なので、上下関係の厳しさは半端ではなかったと。
フォーラムで荒川さんがそんな話をされているのを横で聞いていた広岡さんが、「荒川さんは寮に入っていないから、その程度で済んだんですよ」と言われ、広岡さんも苦労話を始めました。
とにかく、終戦後の寮に入った下級生たちは、想像を絶する体験をされたようです。
甲子園のアイドル、島本講平がセレクションに来たときには、どこかで情報を仕入れた女子校生で安部球場のあの冷たいコンクリートのスタンドが満員になり、たまたま練習を見に行った兄が目を白黒させて帰って来たことをよく覚えています。
今日の日経のスポーツ面に、法政大学サッカー部のコーチもしている水沼貴史さんの「大学サッカーの効能」というコラムがあります。
法政はきわどく一部残留、その時の試合終了の瞬間の歓喜と高揚、号泣する選手。
それを見た水沼氏はつられて泣きそうになった、と前置きし「技術や戦術レベルの高低ではない。選手と応援する側の間に電流みたいに感動が行き来することがスポーツの原点だと改めて思い知らされた」と書いています。
This is 学生スポーツですね