1983年(昭和58年)2月発売の雑誌「Number」69号が、自宅の本棚にあります。
「スポーツ・ヒーローを生んだ『家』」とタイトルがついた特集号です。
野球、相撲、スキー、テニス、体操、水泳、サッカー…
様々な競技種目のヒーローたちが育った家庭を訪れて、その生い立ちやご家族の思いを紹介している、「ナンバー」の歴史に残る秀作です。
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特集号に登場する多くのヒーローたちの中から、私の好みで3人を選ばせていただきました。
冒頭の写真は、同志社大学で学生横綱となった服部祐児さんと、彼のご家族です。
実は、服部さんは双子の兄弟。
揃って190センチという巨漢二人を育て上げたのは、父175センチ、母172センチというご両親でした。
双子の兄弟は、中学から柔道を始めて、愛知の名門・東海高校から同志社大学へ。
高校時代から柔道で将来の五輪候補と言われた二人は、大学でも揃って柔道部に入りました。
ところが大学二年生の時に弟・祐児さんが突然相撲部に転部。
その半年後に大学横綱の座に着いてしまうということで、人生が変わりました。
その後、兄・洋児さんは、筑波大学の大学院を経て、柔道の指導者の道へ。
弟・祐児さんも、大相撲を経て、東海学園大学で相撲の指導者になりました。
自宅を訪れた「ナンバー」取材陣は、玄関に並ぶ30センチ級の靴、25センチ級の女性用の草履に圧倒されたそうです。
(;^_^A
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実は、私の母の名古屋の実家が服部姓。
親戚ではないと思うのですが、彼が学生当時から親しみを持って、力士・服部くんを応援していました。
大相撲の世界にあって、伸び伸びとした育ちの良さ、そして名門校出身らしい知性的な雰囲気を、現役引退するまで失わなかった相撲取りの服部くんでありました。
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二枚目の写真は、当時の高校ラグビー界で常に全国トップ級の強さを誇っていた、目黒高校の名物監督・梅木恒明さんと、ご子息の大豪さん(立大野球部四年生)、精豪さん(明大ラグビー部一年生)。
「ラグビー=スポーツ=梅木家」
「バカでさえなければ、勉強なんてどうでもいい」
という過激な教育方針を持った恒明さんを父に持った兄弟。
「ラグビーやらずば梅木でない、ラグビーをやらないと殺されるっていう殺気が、父にはみなぎっていた」
「勉強したいから塾に行きたいなんて言おうものなら、ぶっ飛ばされる」
「勉強していたら、『そんな暇があったらランニングでもしてこい』と叱られる」
「こんな横暴な親を持って、2人ともグレなかったのは我ながら偉いと思う」
私には想像もつかない、凄まじい家庭であったようです。
長男・大豪さんは、高校2年の時に野球に転向しました。
それから5年経過した、この取材の時にも、父・恒明さんは空想にふけっていたそうです。
「もし大豪が、明大でラグビーをやっていたら…」
ここまで徹底していれば、見上げたものです。
当時、テレビ神奈川で東京と神奈川の高校ラグビーの試合を数多く中継していまして、私は目黒高校の逞しいラグビーが大好きでした。
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最後に登場するのは、当時の大学スポーツ界で最も光り輝くスター選手であった、早稲田ラグビーの本城和彦さん(久我山-早大-サントリー)と、ご両親です。
お父上は、旧制・神戸二中の野球部で遊撃手。
そして早稲田大学に進学するも太平洋戦争が激しくなり、一年生部員の時に『最後の早慶戦』が行われました。
その後、召集されて上海で兵役に就いている時に、広島にいたご両親を原爆で失いました。
終戦の2年後に復員されて、大学に復学されて神宮でプレーされました。
そんなお父上に育てられた和彦くんは、久我山高校に入学する時に、3つの目標を立てたのだそうです。
* 高校ラグビー全国大会で全国優勝する
* 高校ジャパンに選ばれる
* 早稲田大学に入る
その目標を全て達成した本城和彦選手は、対抗戦の公式戦にスタンドオフとして四年間フル出場して、大学ラグビー黄金時代を代表する花形プレーヤーとなりました。
サントリーに進んで、ビジネスマンとしても大活躍されている本城さん。
早大応援部のチア出身で、走り幅跳びで世界に挑む義足のアスリート・佐藤真海さんの上司であった時期もあります。
いつの日か早稲田の監督になってくれたらなあと、密かに期待する私です。
「スポーツ・ヒーローを生んだ『家』」とタイトルがついた特集号です。
野球、相撲、スキー、テニス、体操、水泳、サッカー…
様々な競技種目のヒーローたちが育った家庭を訪れて、その生い立ちやご家族の思いを紹介している、「ナンバー」の歴史に残る秀作です。
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特集号に登場する多くのヒーローたちの中から、私の好みで3人を選ばせていただきました。
冒頭の写真は、同志社大学で学生横綱となった服部祐児さんと、彼のご家族です。
実は、服部さんは双子の兄弟。
揃って190センチという巨漢二人を育て上げたのは、父175センチ、母172センチというご両親でした。
双子の兄弟は、中学から柔道を始めて、愛知の名門・東海高校から同志社大学へ。
高校時代から柔道で将来の五輪候補と言われた二人は、大学でも揃って柔道部に入りました。
ところが大学二年生の時に弟・祐児さんが突然相撲部に転部。
その半年後に大学横綱の座に着いてしまうということで、人生が変わりました。
その後、兄・洋児さんは、筑波大学の大学院を経て、柔道の指導者の道へ。
弟・祐児さんも、大相撲を経て、東海学園大学で相撲の指導者になりました。
自宅を訪れた「ナンバー」取材陣は、玄関に並ぶ30センチ級の靴、25センチ級の女性用の草履に圧倒されたそうです。
(;^_^A
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実は、私の母の名古屋の実家が服部姓。
親戚ではないと思うのですが、彼が学生当時から親しみを持って、力士・服部くんを応援していました。
大相撲の世界にあって、伸び伸びとした育ちの良さ、そして名門校出身らしい知性的な雰囲気を、現役引退するまで失わなかった相撲取りの服部くんでありました。
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二枚目の写真は、当時の高校ラグビー界で常に全国トップ級の強さを誇っていた、目黒高校の名物監督・梅木恒明さんと、ご子息の大豪さん(立大野球部四年生)、精豪さん(明大ラグビー部一年生)。
「ラグビー=スポーツ=梅木家」
「バカでさえなければ、勉強なんてどうでもいい」
という過激な教育方針を持った恒明さんを父に持った兄弟。
「ラグビーやらずば梅木でない、ラグビーをやらないと殺されるっていう殺気が、父にはみなぎっていた」
「勉強したいから塾に行きたいなんて言おうものなら、ぶっ飛ばされる」
「勉強していたら、『そんな暇があったらランニングでもしてこい』と叱られる」
「こんな横暴な親を持って、2人ともグレなかったのは我ながら偉いと思う」
私には想像もつかない、凄まじい家庭であったようです。
長男・大豪さんは、高校2年の時に野球に転向しました。
それから5年経過した、この取材の時にも、父・恒明さんは空想にふけっていたそうです。
「もし大豪が、明大でラグビーをやっていたら…」
ここまで徹底していれば、見上げたものです。
当時、テレビ神奈川で東京と神奈川の高校ラグビーの試合を数多く中継していまして、私は目黒高校の逞しいラグビーが大好きでした。
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最後に登場するのは、当時の大学スポーツ界で最も光り輝くスター選手であった、早稲田ラグビーの本城和彦さん(久我山-早大-サントリー)と、ご両親です。
お父上は、旧制・神戸二中の野球部で遊撃手。
そして早稲田大学に進学するも太平洋戦争が激しくなり、一年生部員の時に『最後の早慶戦』が行われました。
その後、召集されて上海で兵役に就いている時に、広島にいたご両親を原爆で失いました。
終戦の2年後に復員されて、大学に復学されて神宮でプレーされました。
そんなお父上に育てられた和彦くんは、久我山高校に入学する時に、3つの目標を立てたのだそうです。
* 高校ラグビー全国大会で全国優勝する
* 高校ジャパンに選ばれる
* 早稲田大学に入る
その目標を全て達成した本城和彦選手は、対抗戦の公式戦にスタンドオフとして四年間フル出場して、大学ラグビー黄金時代を代表する花形プレーヤーとなりました。
サントリーに進んで、ビジネスマンとしても大活躍されている本城さん。
早大応援部のチア出身で、走り幅跳びで世界に挑む義足のアスリート・佐藤真海さんの上司であった時期もあります。
いつの日か早稲田の監督になってくれたらなあと、密かに期待する私です。
名前を調べたいと思ったら、この外苑茶房さんに神戸二中というヒントがありましたので、調べたら昭和18年入学の本城唯一さんでした。
外苑茶房さんのおかげで謎が解けました。
1,橋本晋一(元監督1951年度主将)
橋本裕一(豊山組)
2,佐藤秀幸(元監督、益田組)
佐藤喬輔(左京組)
3、末石庸幸(1975年度主将)
末石鉄之祐(大田尾組) 娘さんの紡希さんは山下組の副務されてました
4,土屋謙太郎(1983年度主将)
土屋鷹一郎(現役4年)
他にいましたらご指摘下さい
懐かしくも楽しい話、ありがとうございました。