早稲田学報8月号が届きました。
その中に、早大OB藪野健さん(1969年文学研究科美術史修士課程修了)の素敵なスケッチが載っていました。
一塁側の学生席から左翼席後方に日本青年館を望むという構図。
手前には早稲田の校旗、はるか向こう側には慶応の三色旗が翻る風景は、理屈抜きに魂を揺さぶるものです。
スケッチの右下には早慶両校の選手名がメモしてありますから、記念碑の役割も果たします。
銀行マン時代、初めて出会ったお客様が早稲田出身者と知った時、「在学中には、どんな野球選手がいましたか?」と会話を交わすのが定番でした。
「谷澤、荒川が活躍した頃だよ」と相手が言えば、「私は、山倉、金森、岡田の時代です。」と答える。
そうすると、お互いの年次関係が簡単に分かりあえるというわけです。
私が入学した1975年(昭和50年)、野球部の主将は川口和夫選手(成東高校出身。現姓:加藤)でした。
川口さんとは、つい先日、源兵衛で遭遇し、初めてご挨拶させていただく機会を得ました。
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1975年春の打撃オーダーです。
左から川口(4年、主将、外野、成東)、西村(4年、二塁、平安)、吉澤(3年、外野、日大三高)、松本(3年、三塁、報徳学園)、佐藤(2年、一塁、天理)、八木(3年、遊撃、興国)、三浦(3年、外野、東邦)、山倉(2年、捕手、東邦)
投手陣には、阿部(大館鳳鳴)、谷井(八尾)、そして香川(坂出工業)。
地味ながらも黙々と役割を果たすという印象の四年生投手陣でした。
この年の二年生に、現在の監督である岡村さんがいました。
この頃の岡村さんは、名二塁手・西村一貴さん(4年、平安)の控えでした。
内野手なのに、投手の背番号17を着けていたのは、急遽ベンチ入りが決まって空き背番号が割り当てられたからなのかもしれませんね。
それから藪野健先生のことなのですが、キャンパスがミュージアム vol.3 ≪藪野健の芸術≫という6月20日発行の小冊子の中にあった言葉、「子供の頃、自分は老人で、子供時代を思い出しているのだと思い込んでいた」。先月の終り頃、帰りの電車の中でそれを眼にした時には、かなりショックを受けました。
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