外苑茶房

神宮外苑エリアの空気を共有し、早稲田スポーツを勝手に応援するブログです。

早慶戦に向けて

2009-05-19 18:25:53 | 大学野球
東京生まれの私ですが、両親は共に愛知県名古屋市千種区の出身であります。

愛知県は、日本屈指の野球風土の一つだと思います。
今年84歳となる私の父も、いまだに野球大好き人間です。

愛知県の野球は、明治時代に、旧制愛知一中(現・旭丘高校)、愛知二中(現・岡崎高校)、そして愛知四中(現・時習館高校)が野球部を発足させて、強豪として全国に名を轟かせたところから始まります。全国大会の決勝が愛知県勢同士という年もあったそうです。
時代が大正になると、愛知商業、中京商業、東邦商業、享栄商業などの商業学校が台頭し、元号が昭和・平成と移り変わっても、常に全国の高校野球を牽引する地域の一つであったと思います。

このような野球の歴史の話題となるとdawase86さんの独壇場でして、私なぞ足元にも及ばないのですが、なぜこれを話題にしたかというと、その野球王国・愛知が、第二次大戦中には野球を敵性競技として排除しようとする急先鋒だったことを知り、ショックを受けたからです。

昭和18年1月、『愛知県は、現戦局下米英撃滅体制を確立するための一助として、米国国技たる野球をはじめ、一切の米英的運動競技を学園はもとより全県内から徹底的に排除する。』という決議を、よりによって野球王国・愛知県の県政調査会内政部委員会が全国に先駆けて行なったのです。


当時の雑誌などから当時の論調を確かめてみると、
『愛知県政務調査会内政部委員会では米国の競技である野球をはじめ、米英的運動競技を全県下から排撃しろという決議をしたそうである。これに関し山田内政部長は野球をやっていては敵愾心の昂揚はできないと説明している。それならばやらなくてもよいのである。』

『野球だけが運動ではないし団体的訓練もほかのことで充分訓練できる。アメリカあたりでは、日本で一番普及したスポーツのベースボールはアメリカが教えてやったんだ、くらいのことを言いふらしているかもしれない。そのようなことを言わせておく手はない。』

『要は敵愾心の問題であるが、伊豆の下田では唐人お吉やハリスの銅像を取り払い、米国を「ギャング」、英国を「海賊」と呼ぶことにしたそうである。』

このような「英米憎し」の荒波は、英語教育にも及びました。

『修業年限の短縮、大学院の更生、専門学校となる師範学校等幾多の画期的な学制改革が断行され、この4月から実施される。とりわけ英語の扱いに注目すべきものがある。』

『中学では1、2年が必須で3年以上自由選択、女学校では全部自由選択で、華々しい刷新ではないが、英語を自由選択科目にしたことが画期的なことである。』

『今までは英語を知ることが方便から転じて絶対必要なものであるかの程度にまでなっていた。鉄道といわず街路といわず、日常生活に英語が必須のものになっており、日本が米英の植民地であるかのごとき観を呈していた。』

『一般の日常生活に英語などちっとも要らないのである。1週間に何時間も英語に苦労してきた学校生活を思い出して、馬鹿げたことだったと思わない人は少ないだろう。』 

いわゆる知識人たちが、万事こんな調子でもっともらしく吹聴しているのですから、たまったものではありません。本当にひどい時代でした。

現在でも良く知られている『ストライク』=『よし一本』 『アウト』=『だめ』という審判用語の改正がこの年に行なわれ、同年10月には「最後の早慶戦」が挙行されたことをみても、日本の学生野球の歴史において最も悲しい年であったと言ってもよいでしょう。

「最後の早慶戦」に関しては、壮行試合の開催の是非について、当時の早大当局の消極的姿勢が現在に至るまで問題視されるわけですが、大学を取り巻く社会全体がこんな状況であったことを考えると、大学当局を非難することはなかなか難しいのかなあという気持ちにもなってきます。
そして、想像を絶する困難な時代に、最終的に壮行試合が断行されたという厳然たる事実の重みこそを、心で受けとめたいと思うわけです。


今年も、春の早慶戦が近づいてきました。

野球を守り抜いてきた多くの先輩たちのご苦労に思いを馳せながら、平和な時代の伝統の一戦を、心ゆくまで楽しみたいと思います。
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4 Comments

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国民的娯楽 (dawase86)
2009-05-20 02:39:18
管理人さま、我が故郷、愛知県野球史のご紹介
ありがとうございます。愛知が反野球の急先鋒で
あったこと初めて知りました。そんな時代も
あったのですね。
さて、敗者復活戦で優勝した唯一の高校、愛知一中は
明治期においては大学生と戦っても遜色がない
実力校でした。因みに明治44年の戦績ですが
1-4早大
3-1慶應
5-4明治
見事なものです。

長い野球の歴史上、権力から様々な迫害を受けてきた
野球が今日まで我が国の国民的娯楽として親しまれて
いるのはひとえに国民、庶民の根強い支持があって
のこと。官僚に屈せず反骨精神でこの輝かしい歴史を
作ってきたものだと思います。
勝手な近代日本論ですが、野球隆盛なれば我が国は
安泰。野球衰退すれば、我が国は存亡の危機。
これからも野球というスポーツを愛し続けていきたい
と思います。
長々と失礼いたしました。
返信する
ここ八事山東海の♪ (hchs21)
2009-05-20 17:29:02
愛知県といえば、真っ先に浮かぶのが、中京商業(当時)の春夏連覇。
薄れ行く記憶の中で、鮮明に覚えているのは、伊熊と言う大人びた強打者がいたこと、ユニホームを洗わず、ひげもそらない野武士みたいな選手がいたこと、そして、途中はどんなに競っても最後は必ず勝ってしまう底力です。通っていた小学校には校歌が無かったものですから、一番最初に覚えた校歌は中京商業校歌だったと思います。(もしくは、早稲田大学?)

広島も野球好きな土地柄です。戦争で痛んだ広島の人たちを何より勇気付けたのも野球でした、どんなに弱くてもスター選手はいなくても”わしらのチームじゃけん”と応援することが明日への活力に繋がったのでしょう。万年最下位のカープが優勝したのは、私が早稲田に入学した年の秋。神宮からの帰り道、千駄ヶ谷あたりで、ラジオから流れてくる”カープ初優勝”の実況放送に人目もはばからず涙を流しました。
あの感激はそれはそれは大きなもので、高校時代の友人は、最近のメールでこう書いています。「その後、何度か優勝したが、あれ程のインパクトは無かった。あの感激が味わえる様になるまで、カープは待たせるつもりじゃ、次の優勝を!」
今季の優勝はなくなりましたが、ここの所、毎年、優勝が経験できる早稲田ファンは幸せだとおもいます。
でも在学中に一度も優勝を味わうことなく迎えた4年の秋、夢の様な快進撃で勝点4同士の早慶戦、そして優勝。あの感激はやはり格別でしたよね、管理人様!
もっとも、あの感激が味わえるまで待たせて欲しいとは思いませんが(笑)。
返信する
伊熊博一選手 (dawase86)
2009-05-21 00:23:21
大の中日ファンですので思わずレスしてしまい
ました。長身、左の強打者として甲子園でも
大活躍。元々は投手だったのですが、早大出身
杉浦監督が打者として育成した選手です。
昭和41年二次ドラフト1位でドラゴンズに入団
しますが、残念ながら本塁打を放つこともなく
不本意なプロ生活となってしまいました。

因みにこのときの中京商業メンバーは強力で6名が
プロに指名されます。

加藤英夫投手  近鉄2位。
平林二郎三塁手 阪急1位。
矢沢正捕手 広島2位拒否。後、ドラフト外で巨人。
伊熊博一外野手 中日1位。
川口勉一塁手  阪神8位拒否。
渡辺幸三外野手 阪急3位拒否。 
返信する
矢沢捕手のインタビュー (ay1881)
2009-05-21 09:59:38
中京商業の春夏連覇で鮮明に憶えているのは、バッテリーの優勝インタビューのシーンです。
特に、矢沢捕手のインタビュー姿が、いかにも鍛え抜かれた運動選手の体格、姿勢、口調で、子供心に『この人たち、凄いなあ』と感動しました。
そして泥だらけの中京商業のユニフォームが本当に格好良かった!

プロ入りしてからも、矢沢捕手を応援していました。

中京商業は校名変更に伴ってユニフォームもモダンなものに変わってしまいましたが、広島商業、松山商業、早稲田実業、熊本工業・・・ 伝統校のユニフォームは何とも言えない味わいがありますね。

>hchs21さん、
このブログに写真を掲示している優勝パレードこそ、一生の思い出です。

写真が小さくて分かりにくいのですが、中屋主将を先頭に、金森、永関、西本、北口…
できるものなら、写真の中に飛び込んで行きたいです。
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