前回の西坂上にある西坂公園でちょっと一休み。ここまで休憩なしであったのでちょうどよい。携帯地図を見て、前回は、西から東へ向かい、西坂上から下ったことを思い出す。
坂上のまっすぐな道を北西へ落合一小方面に進み、一本目を左折しちょっと歩くと、一枚目の写真のように、霞坂の標柱が立っている。以前はここには立っていなかったと思う。二枚目は、ふり返って東北方向を撮ったものである。三枚目のように、霞坂上近くはまだ急ではない。
上記の標柱には次の説明がある。
「霞(かすみ)坂
明治時代末に開かれた坂で、『豊多摩郡誌』には「大字下落合里俗中井より小学校前に開穿(かいせん)したる新坂なり」とある。
この坂下は一面の水田だったので、春がすみの立つ、のどかな田園風景が美しかったという。」
上四枚目、 一、二枚目の写真のように、ちょっと下り、左に少し曲がると、かなりの勾配となる。まっすぐに下ると、右からの道が合流する。そこにも、三枚目のように、標柱が立っている。以前は、この道からこの坂に来たのであった。ここから、四枚目のように同じくかなり急にまっすぐに下っている。
中村の測定による傾斜角は11°で、かなりの勾配であることがわかる。ここもまだ落合崖線の一部なのだろうか。
明治四十四年(1911)の豊多摩郡落合村の地図を見ると、落合小学校の手前(南)にこの坂道と思われる道があるが、はっきりしない。昭和十六年(1941)の淀橋区の地図では、現在の坂道があり、坂下に新目白通りの予定線が見える。この地図と上記の明治地図を比べると、上記の明治の道はこの坂道のようである。この明治地図の作成のときにはできていたのであろう。
二、四枚目の写真のように、坂下で左に曲がってから新目白通りの歩道に出る。下側もかなり急である。
石川に『新編若葉の梢』(海老澤了之介著 昭33年(1958))の文が紹介されているが、次は、その文を含む「落合土橋」の記事の一部である。
「この橋(落合土橋)あたりの春の景色は、霞んで遠近に雉子の声さえきこえ、若葉の色萌え出で鶯が鳴き、いと麗(うらら)かである。初夏のころのこの辺を打ち過ぎれば、まづ時鳥(ほととぎす)の声が聞こえはじめる。早苗がここかしこに見えわたり、かきつばた・あやめ・菖蒲が、川添いに咲いており、目高や鮒漁どる里の子等もあまた見える。夕暗ごろともなれば、蛍がむらがり飛ぶ。落合の蛍はことのほか光が大きく、四方から集まる男女は、青竹の葉の付いたのを持って追い、蚊やりくゆらす山本の、根岸の里の片庇(かたひさし)、暮るるをおそしと競い立つ有様は、昼の田唄とあわせて面白き風情、忘れられぬ景色である。秋の初雁や名月もこの里に風趣を添える。まことに花に紅葉にまた雪に、四季とりどりのこの里の風情は、筆にもつくし難い有様である。」
左は、『江戸名所図会』の挿絵である落合惣図の左半分である(右半分は七曲坂の記事)。
右端に薬王院が見え、中央付近が久七坂のあたり、その左が西坂のあたりであろうか。その下側に水田が広がり、霞んだように描かれているが、かつてこのあたりで見られた霞んだ田園風景からついた坂名のようである。
(続く)
参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「東京市十五区・近傍34町村㉕北豊島郡長崎村・豊多摩郡落合村全図」(人文社)
「昭和十六年大東京三十五区内淀橋区詳細図」(人文社)
中村雅夫「東京の坂」(晶文社)
「江戸名所図会(四)」(角川文庫)