東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

無名坂~茗荷坂

2011年02月03日 | 坂道

暗坂西側の道 愛住町12,13の無名坂下 暗坂の階段を下り、靖国通りの歩道で左折し、次を左折し進むと、うねりながら南へ道が延びている。ちょうど暗坂の道の西側一本目の道で、浄運寺、法雲寺、正応寺の西側を通って新宿通りまで延びている。

尾張屋板江戸切絵図を見ると、暗坂下から南へ延びる別の道があり、途中曲がりながらいまの新宿通りに至るが、上記のお寺の西側を通るので、この道は暗坂の道とともに江戸時代から続く道のようである。新宿通りの近くに、湯ヤヨコ丁、とある。写真のように、うねっているので、むかしからの道と思ったが、そのとおりであった。

少し歩き、右手を見ると、細い坂道が西へ上っているが、おもしろいことに坂上が短い階段になっている。坂上が急なために階段としたのだろうか。この坂道へ進み上るが、坂上から東側遠方がちょっと見える。後で地図で確認すると、愛住町12,13番地の間の道である。この坂は無名のようであるが、頂上近くに階段があるユニークな坂である。

尾張屋板江戸切絵図に、この道に相当する道があるが、途中で行き止まりである。明治地図と戦前の昭和地図にはこの道があるので、明治になってから坂上がつながったのかもしれない。

愛住町12,13の坂上階段 愛住町12,13の坂上 無名坂先の階段下 無名坂先の階段下 無名坂の坂上を進み、突き当たりを右折すると、かなり細い階段の上にでる。この階段を下るが、途中何箇所か踊り場があって、まっすぐに下っている。階段の両側は建物や塀がせまっており、それがいっそう階段を狭く感じさせる。二枚の写真は途中振り返り、階段上側を撮ったものである。

明治地図と戦前の昭和地図を見ると、無名坂上の突き当たりから北へ延びる道があるが、この階段に相当する道と思われる。

階段下は、靖国通りの南裏側の道で、ここを左折し、西側に進む。

茗荷坂下 茗荷坂下 茗荷坂標柱 ちょっと広めの道路に突き当たるが、右折すると、靖国通りの富久町の交差点である。この広めの道路を横断し、左折し、少し進み一本目を右折すると、茗荷坂の坂下である。中程度の勾配でまっすぐに西へ上っているが、坂上側で緩やかに左にカーブし勾配も緩やかになっている。

坂をちょっと上ったところに標柱が立っているが、かなり古くなっていて(平成三年建立)、説明文が判別しにくくなっている。おまけに、説明文のある面が塀側をむいている。新しくするとき、説明文はせめて横の面にしてほしいものである。このため、「東京23区の坂道」を参考にして標柱の説明文を掲載する。

「江戸時代まで、この坂は源慶寺と東長寺に沿って市谷村の茗荷畑であったためこう呼ばれた。」

尾張屋板江戸切絵図(牛込市谷大久保絵図)を見ると、自証院から南へ延び源慶寺の前を通る道にミヤウカ坂とあり、この道が西へ折れ曲がって東長寺の前を通っているが、この折れ曲がり後の道が現在の坂道と対応すると思われる。近江屋板にも源慶寺と東長寺との間の道に坂マーク(△)がありミヨウガ坂とある。

『御府内備考』に、「一坂 登凡貮丈程 右者東長寺表門脇町屋横通り源慶寺との間ニ有之里俗茗荷坂と相唱申候」とあり、江戸切絵図が示す道筋と説明があっている。

茗荷坂上 茗荷坂上 源慶寺と東長寺は現在もあり、東長寺が茗荷坂の南側にあり、写真にも写っている。

石川は、この坂下をむかしは茗荷谷と称し、茗荷をつくったところから坂名がおこっているとし、土地の古老の談として、むかしの茗荷坂は車の後押しに大汗をかく急坂で、源慶寺の樹立と東長寺の乱塔婆(墓場)に囲まれたものすごく寂しい坂だったことを紹介している。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
「大日本地誌体系 御府内備考 第三巻」(雄山閣)

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