東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

新壱岐坂

2012年12月05日 | 坂道

新壱岐坂下 新壱岐坂下 新壱岐坂下 新壱岐坂中腹 前回の新坂(外記坂)下を左折すると、新壱岐坂の坂下である(現代地図)。広い通りが坂下の白山通りからまっすぐに南東へ上っている。坂上側で左に曲がってから東へ延びて本郷通りに接続している。

一枚目の写真は、白山通りの向こう側から坂下を撮ったもので、左右が白山通りである。二枚目は坂上へとちょっと進んでふり返って坂下を撮ったもので、通りの向こうに東京ドームが大きく見える。三枚目はその先の中腹から坂上側を、四枚目はさらにその先から坂上側を撮ったものである。緩やかな勾配で上っている。

本郷一丁目22番と23番の間から本郷二丁目に向かって上る坂で、白山通り側の谷と本郷台地を結ぶが、かなり長いため本郷台地の坂にしては勾配はさほどない。

新壱岐坂中腹 新壱岐坂中腹 新壱岐坂中腹 新壱岐坂上 一枚目の写真は中腹(下側)から坂下を、二枚目はその上から坂上を撮ったものである。二枚目の左端の道へと左折すると、むかしの壱岐坂である。三枚目はさらに上ってから坂下を、四枚目はそのあたりから坂上側を撮ったものである。四枚目の歩道橋のあたりで左に緩やかにカーブしている。

三枚目の写真の近くの歩道(北側)に坂の標識が立っていて、次の説明がある。

「新壱岐坂(しんいきざか)  本郷1-22と23の間
 大正12年(1923)の関東大震災の復興計画によって、新しくひらかれた昭和の坂である。
 この坂の中ほどにある東洋女子短期大学のわきで、この坂と斜めに交差している細い坂道がある。「壱岐(殿)坂」という。壱岐坂の水道橋寄りに小笠原壱岐守の下屋敷があったので、この名がついたといわれる。江戸時代からあった古い坂である。
 ながい歴史のある壱岐(殿)坂の名をとって、この坂を"新壱岐坂"とした。現在は、区内の幹線道路としてひろく知られているが、もとになった壱岐(殿)坂の名は忘れられようとしている。
      東京都文京区教育委員会 平成元年3月」

新壱岐坂上 新壱岐坂上 新壱岐坂上 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861)) 一枚目の写真は坂上のカーブのちょっと先から坂下を撮ったもので、まっすぐに下っているのがわかる。二枚目はカーブのあたりから坂上を、三枚目はさらにその先から坂上を撮ったもので、このあたりではほぼ平坦になっている。

四枚目の尾張屋板江戸切絵図 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図(右斜め上が北)に、イキトノサカとあるが、これが中腹から左折する旧壱岐坂で、ここは後で行く。この新壱岐坂は、旧壱岐坂の一部を吸収しているようである。

標識の説明にあるように、明治地図(明治40年)にはこの坂はまだないが、戦前の昭和地図(昭和16年)を見ると、この坂ができている。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 新坂(外記坂) | トップ | 壱岐坂(壱岐殿坂) »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

坂道」カテゴリの最新記事