比丘尼坂下を右折し進むと、靖国通りにでるが、ここを左折し、一本目を左折すると、細めの道が延びている。
はじめ平坦な道が続き、少しうねっており、坂らしき雰囲気はない。やがて緩やかな上り坂になる。坂町坂である。
右の写真は、坂下から撮ったものである。このあたりはまだ勾配は緩やかである。
尾張屋板江戸切絵図を見ると、比丘尼坂下から尾張屋敷の前の道にでて、左折すると、市谷本村丁だが、次を左折すると、南に延びる道がある。ここが坂町坂と思われるが、坂名も坂マークもない。近江屋板では、坂名はないが坂マークの△印がある。坂上側が坂丁(町)となっている。
明治地図を見ると、このあたりは四谷坂町となっており、坂下の旧尾張屋敷跡に陸軍士官学校ができてから発展したとのことで、士官候補生たちがこのあたりに息抜きに来たのであろう。戦前の昭和地図には坂町坂とある。
上右の写真の中ほどが四差路になっているが、そのさきあたりから傾斜がついてくる。
左の写真は、四差路の先で撮ったものである。右に曲がりながら勾配がだんだんときつくなってくる。
写真右側に見えるように標柱が立っているが、次の説明がある。
「坂名は「坂町」という町名にちなんで、呼ばれていたようである。『御府内備考』では、坂の名称はつけられていないものの、百メートルを越す長さがあることが記されている。」
「御府内備考」の「坂町」に、「一坂 登六十二間程巾三間程」「右往古より町内往還に之有り四谷大通りより北の方に相當り市ヶ谷七軒町より當町え入夫より尾州様御長屋下え出東の方御同所田町通の道筋にて北の方は市谷五段坂通同所柳町えの道筋に御座候尤名目之無き候右坂に添之有り候町屋に付き當町の名目相起候儀に御座候」とある。
一間を1.8mとすると、江戸のころ、長さ111m、幅5.4m程の坂であった。この坂に添ってある町なので坂町の町名がついたとある。町名の由来が坂の存在であり、それがまた坂名の由来となったという関係のようである。
昔はこの坂下あたりまで蓮池という大池で、水鳥が多く飛来したので、三代将軍家光が狩猟に訪れたといわれ、その後、埋め立てられて町屋ができ、下坂町と称し、坂上を上坂町としたが、明治維新後は武家地を併合して四谷坂町となったとのことである(石川)。
右の写真は坂上から撮ったものである。坂上にも標柱が立っている。まっすぐに下っているが、写真の坂下が上左の写真で右に曲がったあたりである。
この坂上に向かう勾配は坂下側よりもかなりきつくなっている。
この坂はどこかの坂と似ていると思いながら上ったが、最近出かけた六本木の長垂坂である。坂下ではさほどの勾配はないが、坂上側で次第にきつくなる点、かなり長い坂である点、道幅はさほどない点(こちらの方がより狭い)、何回か緩やかに曲がりうねっている点、江戸の坂である点などである。特にうねって長いのが坂歩きに興趣を添えている。この坂の方が場所柄からか庶民的な感じがするが。
以前もこの坂を訪れているが、津の守坂の方から来たので、この坂を下った。今回、坂下に来て上ったが、かなり感じが違う。下るよりも上る方がよい坂と思う。
(続く)
参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「大日本地誌体系 御府内備考 第三巻」(雄山閣)