日向坂上の南側の歩道を歩き、オーストラリア大使館の前を通りすぎ、三井倶楽部の手前を右折すると、樹木で鬱蒼とした下り坂となる。夕暮れになり、かなり暗くなっている。少しさきで左に緩やかにカーブしてからまっすぐに下っている。右の写真は坂下から坂上を撮ったものである。
この坂は、山野に、綱坂に匹敵するほどの優美な無名坂として紹介されている。写真右側に歩道があり、散策にはこの歩道がよい。岡崎も美しい坂として紹介している。
尾張屋板江戸切絵図をみると、このあたりは島津淡路守の屋敷で、その東に綱坂があるが、この無名坂はない。明治地図にもないが、戦前の昭和地図にはあるから、この間にできた道である。
この坂は、隣の綱坂などとともに以前訪れたことがあり、坂の印象はよかったが、なぜか、この坂と綱坂を赤いスポーツカーがうるさい音を出しながらぐるぐる回っていた。そのため、坂の雰囲気を楽しめなかった思い出がある。今回はそのようなことがなかった。
坂下突き当たりを左折し、少し歩き、突き当たりを左折すると、綱坂の坂下である。ほぼまっすぐに上っている。勾配は中程度である。
この坂道は三井倶楽部とイタリア大使館との間で、坂下は慶應義塾大学の西端である。
この坂道は上り一方通行であるが、桜田通りから麻布方面への近道なのか、ときどき、車がスピードをだして坂道を駆け上る。
左の写真は、坂下から撮ったものである。三井倶楽部の方からの樹木が伸びて坂を覆っており、反対側にも高い樹木があり、鬱蒼としている。左側に塀がずっと続き、右側に歩道ができている。昼でもちょっと暗めであるところがよい。タイムスリップしたような雰囲気にひたることができる。
坂下と坂上に標柱が立っているが、次の説明がある。
「つなざか 羅生門の鬼退治で有名な平安時代の武士渡辺綱(わたなべのつな)が付近に生まれたという伝説による。」
渡辺綱(953~1025)は、源頼光四天王の一人で、京都一条戻橋付近で鬼婆の片腕を斬り落としたとか、大蜘蛛退治をしたとか、説話に富む人物である(岡崎)。
石川によれば、この地を渡辺綱の旧跡とする伝承は諸書にみえるという(「武江志」など)。
「御府内備考」には次の説明がある。
「綱坂は松平家と保科家の間の坂をいへり武江志云松平隠岐守の屋敷のうちに綱が駒繁の松といふもありと按に此辺を一たひ綱が旧蹟なりとあらぬ説を傳へしよりさまざまの名おこれり是みな三田氏のことによるか江戸記聞」
綱の出生伝説について「東京府志料」に「此辺渡辺綱出生の地なりと云ふ土人の口碑あれども信じがたし。渡辺系図に、源次充、武州足立郡箕田なること明けし。或説に此地は三田を氏とせし人塁世居住せり、其家譜に三田三河守、其子駿河守綱勝武州三田に住す、代々綱の字を名とすとあり、依て後人渡辺綱に混じて附会せしなるべしと云へり」とあるという(石川)。
この地には三田氏が住んでいて、その家譜に三田三河守、その子駿河守綱勝が武州三田に住み、代々綱の字を名としたが、それを後世の人が綱と混同したとある。
上記のように、いずれも、このあたりが渡辺綱の出生の地であることに対して否定的である。あくまでも伝説なのであろう。
横関も、同様に考えているようで、渡辺坂や綱坂、綱が手引坂、綱が産湯の井戸、綱塚、綱が駒つなぎの松、綱生山当光寺などと、次から次と名前がでてきて、まことらしくふくらんで、びくともしなくなった、としている。
伝説では、綱が産湯の井戸は三井倶楽部のあるところが生まれた家で、ここにその井戸があった。
右の写真は坂上から撮ったものである。夕暮れになったので、樹木による陰影と相俟ってかなり暗くなっている。
尾張屋板江戸切絵図には、上記のように、綱坂とあり、坂マークもある。近江屋板には、△綱坂、とあり、坂上の伊予松山藩の松平隠岐守中屋敷に、その伝説の駒つなぎの松に関係のありそうな記述がある。
この坂は、坂下の標柱の立っているところから下側でちょっと東側にふくらんでいるが、それが両江戸切絵図にもある。江戸から続く坂である。
松平隠岐守中屋敷のあったところは、現在、イタリア大使館であるが、ここで赤穂浪士の大石主税ら十人が切腹した。
道の途中で坂上となり、日向坂からの通りまで平坦な道を少し歩く。
(続く)
参考文献
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「大日本地誌体系 御府内備考 第四巻」(雄山閣)
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)
「嘉永・慶応 江戸切絵図」(人文社)