東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

比丘尼坂

2010年11月13日 | 坂道

高力坂上から北に靖国通りへとまっすぐに下る坂があるが、ここを下り、一本目を左折する。細い道をちょっと歩くと、比丘尼坂(びくにざか)の坂上である。

狭い道がまっすぐに下っている。勾配は中程度といったところで、長さもさしてない。右の写真は、坂上から撮ったものである。

坂上と坂下に標柱が立っているが、次の説明がある。

「『御府内備考』によると、昔、この坂の近くの尾張家の別邸に剃髪した老女がいたことから、こう呼ばれたという。」

尾張屋板江戸切絵図を見ると、前回の高力邸の北側に東西の道があり、坂名も坂マークもないが、これがこの坂であると思われる。近江屋板では、ビク尼ザカとあり、坂マークの三角印△もある。坂を下り坂下を右折し直進すると、尾張屋敷の前の道(いまの靖国通り)にでる。

上記の標柱が引用する「御府内備考」には次のようにある。

「比丘尼坂は四谷御門市ヶ谷御門の間御堀端へ出るの坂なりここに尾張殿の屋敷ありて昔は老女の剃髪せるものを皆此屋敷へ置れしゆへ里俗の呼名となりしといふ」

左の写真は坂途中から坂上を撮ったものである。ここを直進し、突き当たりを右折すると、高力坂上である。

「新撰東京名所図会」に「比丘尼坂は堀端より北の方陸軍士官学校の前に下る阪をいふ。もとは狭くして且つ急なりしが、今は広くして其の勾配を緩ふせり。此阪は尾張家に当れるに因り、紀伊国阪に対して尾国阪といひしを、後に訛りて比丘尼に作れるなり。」とあるという(岡崎)。

「新撰東京名所図会」は比丘尼坂につき二つの点で異説を示している。第一は堀端から北の方陸軍士官学校の前に下る坂としている点、第二は紀伊国阪に対して尾国坂といったが、後に訛り比丘尼となったという点。

第一の点は、現在の高力坂上から北にまっすぐに下って靖国通りにでる坂を比丘尼坂とするが、この道は、明治地図にはあるが江戸切絵図にはなく、比丘尼坂は御府内備考から江戸の坂といえるから、比丘尼坂ではないと思われる。第二の点は、正誤不明であるが、坂名の由来は御府内備考説が主流のようである。

石川と岡崎にある地図は、高力坂上から北にまっすぐに靖国通りまで下る坂を比丘尼坂と示し、これは「新撰東京名所図会」と同じ道筋である。なにかの間違いと思われる。

 左の写真は坂下から坂上を撮ったものである。坂上側の方が勾配があるようである。

前回の2・26事件と荷風の記事を書いているとき、荷風の「断腸亭日乗」に次のような記載を見つけた。

昭和11年(1936)「五月十一日。晴れて稍暑し。夜浅草公園活動小屋の絵看板を見歩き、千束町を過ぎ、吉原遊郭を歩む。大門より乗合自働車に乗り、銀座に少憩してかへる。是日午後三笠書房店員来談。此人稲垣氏と云ふ其父は橘屋といふ周旋宿の主人にて昭和五六年頃市ヶ谷比丘尼阪下に住せし時余屡用談に赴きしことあり今は四谷津守坂に移居し無事とのことなり代地稲垣の息子なりと思ひしは余の誤りなり。」

その店員の父を荷風は知っていたらしく、その父が比丘尼坂下に住んでいた頃訪ねたことがあった。津守坂に移居したとあるが、この坂には、これから向かう。
(続く)

参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「大日本地誌体系 御府内備考 第三巻」(雄山閣)

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