今回は、新宿通りの北側で市ヶ谷から新宿方面の坂を巡った。
午後四谷駅下車。
3番出口からでて、信号を渡り、北側に進と、外濠公園に下る坂道があるので、そちらに進む。坂下から階段を上り、歩道を歩くと、先ほどの公園の奥の方に野球場が見える。まもなく信号のある所につくが、このあたりが高力坂の坂上のようである。ここで外濠に沿って右に曲がり、坂下で靖国通りにつながる。
外濠側の歩道を進む。坂は緩やかに下っており、その途中で坂下側を撮ったのが右の写真である。片道二車線の広い通りが中程で左に緩やかに曲がっている。ここから少し進むと、ちょうど曲がったところ付近に石の坂の標識が立っている。以前、この坂には来ているが、たぶん、外濠側の歩道を歩かなかったので、この標識ははじめてである。次の説明が刻まれている。
「高力坂 新撰東京名所図会によれば、「市谷門より四谷門へ赴く、堀端辺に坂あり、高力坂という。幕臣高力小次郎の邸あり、松ありしかば此名を得たり、高力松は枯れて、今、人見の合力松を存せり、東京電車鉄道の外濠線往復す。」とある。すなわち、高力邸にあった松が高力松と呼ばれ有名であったので、その松にちなんで、坂名を高力坂と名づけたものと思われる。 昭和58年3月 東京都」
通常、坂の標柱や説明板は、その区の教育委員会が立てているが、これは都によるものらしい。
標識から坂下に向け進むと、右手に外堀の水面が見えてくる。
左の写真は坂下近くから坂上側を撮ったものである。写真左が外濠側の歩道である。このあたりになるといっそう緩やかになりほぼ平坦である。
標識の説明に、幕臣高力小次郎の邸があったとあるので、尾張屋板江戸切絵図をみると、四谷見附の北側、坂上に高力主税助の屋敷がある。近江屋板を見ると、高力小太郎となっている。いずれにも坂マークは見えない。
坂名の由来は、高力邸の松が高力松と呼ばれ、それから高力坂となったようで、松が介在しているところがおもしろい。
新撰東京名所図会にいま合力松があるとされていたが、岡崎は、大正のころの古い写真に見られる、樹齢四百年といわれたこの松は、さすがに巨大である、と記している。
昭和2年(1927)に宮島資夫がこのあたりのことを次のように書いている。
「木村町の高力松、現在では救世軍の学校と変圧所がある、あのあたりは、昔は辻斬のあったという場所である。・・・高力松から喰違い見附まで、あの濠端は、子供の頭に無気味な印象を深く残した。が、然し今日では、濠は、大半埋められた。」(大東京繁昌記)
戦前の昭和地図を見ると、この坂の北側に救世軍村井奨學寮というのがある。そして、靖国通りの北側の広い土地に陸軍士官学校がある。ここは尾張藩の上屋敷だったところである。いまは防衛庁となっているが、戦後東京裁判が行われ、また、三島由紀夫が自決したのはここであった。
坂下の交差点を渡り、反対側の歩道を進み坂上にもどる。右の写真は坂上の信号を渡った歩道から坂下を撮ったものである。緩やかだが、このあたりで少し傾斜がついている。
永井荷風は「断腸亭日乗」にこのあたりのことを次のように書いている。
昭和5年(1930)「十月廿八日 薄曇りの空風もなくて静なり、籬菊ひらく、灯ともし頃番街に徃く、途上四谷見附辺より市ヶ谷八幡の岡を望むに遠近の樹影暮靄につゝまれ濃淡描くが如し、余曾てこの処の眺望をよろこび拙著日和下駄の書中にもその風趣を細述せしことありき、今日濠は殆埋めつくされ、見附の橋の中央には公設市塲建造せられ、土手の下には工夫の小屋散在し、材木砂石塵芥の置場となれり、本村町濠端の高力松は猶枯死せず、救世軍寄宿舎の門前に屹立せり、されど、高きあたりの枝次第にまばらになりたれば余命のほども思ひやらるゝなり。」
松(合力松であろう)は、このときもあったらしく、救世軍寄宿舎の門前に立っていたが、松の様子から荷風は余命が短いのではと心配している。
(続く)
参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「大東京繁昌記」(毎日新聞社)