以前(2008年10月)にでかけた桃園川緑道の散策記です。
阿佐ヶ谷駅からでて中杉通りを横断し、三菱東京UFJ銀行のわきの道に入り、商店街を進む。
けやき公園の先で中央線の高架下をくぐると、その先に桃園川緑道の出発・到着地点のつもりか、緑のゲートがある。
ゲートのわきに、桃園川緑道 杉並区と刻んだ大きな石が置いてあり、その上にカエルの人形がたくさん並んでいる。
ここから緑道が遊歩道となって延びている。
中央線と青梅街道との間を杉並区から東側に中野区へと延びて神田川まで続いている。
途中、高円寺のパル商店街、環七通り、大久保通り、山手通りなどを横切って、神田川の末広橋(中野区東中野一丁目1番の地先)の付近に至る。
桃園川は天沼弁天池と呼ばれた湧水池(天沼三丁目十七番)を水源とした。
弁天池は現在、杉並区立天沼弁天池公園となっている。
この緑道散策よりも前にこの弁天池公園に行ったことがあったが、小さな池があった。これはむかしの弁天池ではないらしい。水が流れ込んでいたが、自然水ガイド本にもなく、湧水ではなさそうである。近くには弁天様を祀る小さな祠があり、よく手入れされていた。
桃園川は天沼弁天池の湧水量がわずかなため旧千川上水を練馬区関町から分水したが、これでも田植えのとき流域の馬橋、高円寺、中野周辺で水が不足したので、天保12年(1841)善福寺川から引水する新堀用水路がつくられたとのこと。
この新堀水路の跡らしい遊歩道が阿佐ヶ谷南一丁目から高円寺南三丁目へと桃園川緑道の近くまで続いているようである。
10月であったのでコスモスが咲いていた。コスモスはちょうどこの季節の花である。
緑道の名のとおり植え込みなどによる緑が多い。
緑道のよい点は、車が通らないことは当然であるが、花や緑が多いことである。この点、この緑道は、沿道の人々の協力もあるのだろうか、花や緑が多く、よい散歩道となっている。
緑道は通勤、通学や日常生活の通り道にもよくあい、むかしの川の跡の有効利用になっている。こういった散歩道のある地域はよい街となっていると思う。
出発の緑のゲートから高円寺のパル商店街までの間には、親子亀や河童などの置物がたくさんあってなかなか楽しい遊歩道にもなっている。
この商店街は高円寺駅から新高円寺駅の近くの青梅街道まで延びている。
ここにはよい古本屋もあることから、ときどき散歩にくるが、そのとき、この緑道を一部通ることがある。全体を歩き通すのはこれが始めてである。
『江戸名所図会』に「享保の頃この辺の田畝に悉く桃樹を栽ゑしめ給ひ、その頃台命によりてこの地を桃園と呼ばせ給ひしといへり。」とある。すなわち、享保20年(1735)八代将軍吉宗この地に鷹狩りの折、犬小屋御囲跡地(桃園町北隣の囲町に元禄八年(1695)犬小屋設置。宝永6年(1709)取り払い)の辺りを桃園にした。
この桃園の地名がもとで昭和5年(1930)に中野区桃園町となった。現在の中野三丁目の辺りである。近くに桃園三小などがある。この地名から昭和初期以降、桃園川と呼ばれるようになった。中野川とも。
桃園川はよく氾濫したらしく昭和35年(1960)からの河川改修工事で暗渠化された。
桃園川緑道はまっすぐに延びていて、以前歩いた井草川緑道とはかなり違う。
井草川緑道はゆるやかにカーブしているところが多かったが、桃園川緑道は中野駅の南側の大久保通りと交差する辺り(桃園三小の北側)で大きく曲がっている以外は、さほどカーブせずに続いている。
むかしは蛇行していたが、大正14年(1925)からの土地区画整理でまっすぐに改修されたとのことである。
中野区に入ってしばらくすると、ちょっとした公園が道そばにあり、一休みにちょうどよい(宮前公園)。
山手通りを越えると、ゆるやかに下る階段があり、進むと、小さな公園がある。その先が神田川である。桃園川はこの近くで神田川に注いでいた。
この小公園の一角にフォークソング「神田川」の詩碑が建っている。
近くの末広橋に行くと神田川の上流側に新宿の高層ビル群が見える。
「神田川」の曲はこの辺りの情景からできたと想像されるが、実際の歌の舞台はもっと下流であるとのこと(Wikipedia)。いずれにしてもその当時(昭和40年代)はいまとかなり違った風景だったのであろう。
ところで、桃園川緑道は阿佐ヶ谷駅近くの緑のゲートから出発したが、その出発点と水源の弁天池との間はどうなっているのかと、地図を見ると、中杉通りから天沼一丁目付近までの間に残っているようであるが、緑道ではなさそうである。
参考文献
菅原健二「川の地図辞典」(之潮)
「江戸名所図会(四)」(角川文庫)