東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

荷風偏奇館に至るまで(1)

2010年03月22日 | 荷風

永井荷風が麻布市兵衛町の偏奇館に至るまでの居所の変遷を簡単にたどってみる。

生家は小石川区金富町45番地。現文京区春日二丁目20番25号あたり。安藤坂金剛寺坂との中間に位置する。荷風、本名壯吉はここで明治12年(1879)12月3日に生まれた。

父久一郎は明治8,9年ころ旧幕の御家人旗本の空屋敷を三軒ほど買い、古びた庭や二つもの古井戸や木立をそのままに広い邸宅とした。小日向水道町に水道の水が露草の間を野川のように流れていた時分であるという。邸内の古井戸などのことは荷風の少年時代の回想記である「狐」(明治42年)に詳しい。

明治26年11月麹町区飯田町三丁目黐ノ樹(もちのき)坂下に移転。黐ノ樹坂は別名冬青木坂で、九段坂の北側に位置する。

明治27年10月麹町区一番町42番地に移転。二松学舎の裏側。借家であったが、銀杏の老樹が茂る宏壮な屋敷であったという。

明治35年(1902)5月牛込区大久保余丁町79番地に移転。現新宿区余丁町14番地。

久一郎は千数百坪の地所に二階建の式臺附玄関のある大きな屋敷を買い入れた。余丁町表通りに面し、横町のある角地、黒門と黒塀に沿って杉、枳殻(からたち)が植えられ、樹木茂る邸内には東屋やテニスコートがあり、その冬景色も見事であったという。この邸宅を来青閣、その書斎を小丁香館と呼んだ。久一郎は禾原(かげん)と号し、来青は禾原の別号であった。

荷風はこの間、明治36年(1903)9月から明治41年(1908)7月までアメリカとフランスに。

大正2年(1913)1月久一郎急逝。荷風は2月に、前年9月に結婚した妻ヨネとはやくも離婚した。

荷風が家督を相続した。

大正3年(1914)8月荷風はかねてから交情のあった狎妓八重次と再婚したが、翌年2月離婚。このことから荷風は母や弟(威三郎)の手前もあって、余丁町の家から大正4年(1915)5月中旬京橋区築地一丁目6番地に移転した。次の年正月に浅草旅籠町一丁目13番地の通称代地河岸の小意気な小家を借りて転宅した。

大正5年(1916)3月末に余丁町邸内に離れを新築しこれを斷膓亭(断腸亭)と名づけた。荷風は斷膓花(秋海棠)をもっとも好んだという。5月はじめに代地河岸の住居を引き払って余丁町に還り、斷膓亭に起居するようになった。

大正6年(1917)9月16日に中断していた日記をつけ始めた。これが「断腸亭日乗」である。荷風37歳。以降、昭和34年(1959)4月29日の死の前日まで続いた。

以上が荷風が偏奇館に至るまでのいわば前史である。

参考文献
秋庭太郎「考證 永井荷風」(岩波書店)
同「新考 永井荷風」(春陽堂書店)

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