東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

長崎誠三「戦災の跡をたずねて」

2010年03月12日 | 読書

「戦災の跡をたずねて」(アグネ技術センター)は、副題を-東京を歩く-とし、東京の『戦災の跡』を紹介するが、哀しみをともなうガイド本である。筆者自身の痛恨の戦災体験をもとに本書ができたからである。

東京は、第二次世界大戦中に米軍により昭和19年(1944)11月24日のマリアナ基地からの初空襲以降百回以上の空爆を受けたが、特に以下のように昭和20年3月10日、4月13日、4月15日、5月25日に大規模な空襲を受けた。

3月10日には0時7分深川地区への空爆から始まり、その後、城東地区にも爆撃が開始された。0時20分には浅草地区や芝地区(現・港区)にも爆撃が開始された。死亡・行方不明者は10万人以上といわれ、一回の空襲で東京市街地の東半分、東京35区の3分の1以上の面積(約41km²)が焼失した。

4月13日には王子・赤羽地区を中心とした城北地域が、15日には大森・蒲田地区を中心とした城南地域が空襲・機銃掃射を受け死傷者4千人以上、約22万戸もの家屋が焼失した。さらに5月25日には、それまで空襲を受けていなかった山の手に470機ものB29が来襲した。これにより死傷者は7千人以上、被害家屋は約22万戸と3月10日に次ぐ被害となった。(Wikipedia)

筆者の自宅は、旧牛込区と淀橋区の境、淀橋側に50mほど入ったところ(現新宿七丁目)にあったが、4月13日深夜投下された焼夷弾により焼き尽くされた。

20年間東京の戦災遺跡を求めてカメラに収めたとのことで、それが本書となった。

永井荷風は大正9年(1920)5月麻布市兵衛町の洋館に居を構え、これを偏奇館と称したが、偏奇館は3月10日の大空襲で焼亡した。このことも本書で紹介されている。

断腸亭日乗3月9日「天気快晴、夜半空襲あり、翌暁四時わが偏奇館焼亡す、・・・麻布の地を去るに臨み、二十六年住馴れし偏奇館の焼倒るるさまを心の行くがきり眺め飽かさむものと、再び田中氏邸の門前に歩み戻りぬ、・・・近づきて家屋の焼倒るるを見定ること能はず、唯火焔の更に一段烈しく空に上るを見たるのみ、是偏奇館楼上少からぬ蔵書の一時に燃るがためと知られたり、・・・」

荷風はいったん避難した後、戻ってきて偏奇館から上る火炎を見たようである。荷風は事実を客観的に語っているが、二十六年住み馴れた家と多くの蔵書を失った痛恨の一大事であった。これは筆者の想いにつながる。

荷風はこの後代々木の杵屋五叟宅で避難生活を送るが、同じく4月13日「晴天、夜十時過空襲あり、爆音砲声轟然たり、人皆戸外に出づ、路傍に立ちて四方の空を仰ぎ見るに省線代々木駅の西南方に当り火焔天を焦す、明治神宮社殿炎上中なりと云、又新宿大久保角筈の辺一帯火焔の上るを見る、・・・」このとき大久保にあった著者の家も炎上したのであろうか。

本書に紹介されている戦災の跡は、イチョウなどの樹木と、石垣、石碑、石像、石灯籠、敷石、墓石などの石に残っているものが多い。本書で、戦災を受けた地域の大木、神社、寺には焼かれた跡が残っている可能性があることを知った。

イチョウは火災に強く、防火樹としても植えられたらしい。イチョウの大木で木肌や中心部が焼かれても元気な姿で残っているものがあるという。1月に麻布山善福寺に行き、戦災にあった善福寺公孫樹も見たが、焼かれた跡には気がつかなかった。昭和20年5月25日の空襲によるものらしい。

各地の戦災の跡は、本書で紹介されてからも、すでに10年以上たっている。どれだけの跡がいまなお残っているであろうか。重い記録であるが、街歩きの度に思い出さざるを得ないであろう。

本書の付録として東京空襲記録や全国主要都市の戦災一覧などがのっているが、米軍は広島・長崎への原爆投下を含め空襲による攻撃を繰り返し無差別に行ったことがわかる。本書で紹介の戦災の跡はその爪痕を何十年後にもなお残している。酷い記憶はいつまでも消え去ることがないかのように。しかし、人々の記憶はやがて消滅してしまう。戦災の跡もやがて消え去るかもしない。そうした中で本書はガイド本というよりも戦争を記憶する貴重な記録というべきかもしれない。

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