東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

善福寺川の桜

2010年03月31日 | 散策

善福寺川緑地公園の両岸には桜の木が植えられており、花見の名所となっている。

特に、五日市街道にかかる尾崎橋とその上流側の相生橋との間がもっとも多い。

写真は尾崎橋から上流側を撮ったものである。

この間に花見客も集中するが、先週日曜日は、かなり寒く、このためか、例年よりも人の出が少なかった。桜もまだ満開ではなかった。

尾崎橋から川に沿って上流側に歩いていくと、善福寺川緑地公園であるが桜の木はまばらになってきて花見客もほとんどいなくなる。

途中、橋のたもとに善福寺川の案内板がたっていた。そこに、桃園川緑道の記事のときにでてきた新堀用水路について次のような説明があった。

「善福寺川には、今も忘れてはならない歴史があります。1840年(天保11年)、天保の大飢饉を契機に、当時水不足で困っていた旧桃園川流域へ善福寺川の水を分水する用水路を開削しました。現在の大谷戸橋付近から一部トンネルで潜る大工事でしたが、江戸(天保)時代の農民の汗と労苦の結晶は、その後大正時代まで中野・高円寺・馬橋村の水田を潤したのでした。」

説明文となりの新堀用水路図(写真)によると、いまの荻窪団地近くの大谷戸橋付近で取水し、善福寺川にほぼ沿い天神橋公園を通って南下してから、東北方向に向きを変え、トンネルを通し、杉並高校の西側、須賀神社の脇の弁天池、スズラン通りの東側、馬橋児童遊園などを通って桃園川に接続したようである。途中、弁天池から先、青梅街道に向けて標高が高くなるためトンネルで青梅街道を横断している。これが天保10年(1839)の工事のようである。

天保11年(1840)の工事では、大谷戸橋付近からトンネルを通して弁天池にほぼ最短距離で接続させたようである。須賀神社脇の弁天池は中継池として利用された。

3本のトンネル工事を含めかなりの苦心の工事であったことがしのばれる。

天保の大飢饉は天保4年(1833)から始まり、慢性的な大飢饉が続き、天保7年(1836)に頂点に達した。6年冬の暖冬異変が翌7年の春夏には低温・多雨にかわり、しかも稲の出穂期に大風雨、ついで大霜が襲い、諸作すべて凶作となった(北島正元「日本の歴史18」中公文庫)。

新堀用水路は、このような天保の大飢饉をきっかけに作られたとのことで、現在、一部が遊歩道として残っている小道は工事に携わった農民の労苦の跡を記憶するものである。

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