貫井神社は地元の鎮守で創建が天正15年(1590)。水神である弁財天を祀ったのが始まりで貫井弁天とも呼ばれる。
神社に入るとかなり大きな池がある。
この池もハケからの湧水を水源とする。かなりの湧水量である。この池からも野川に流れ込んでいるのであろう。
むかしはもっと湧水量があったらしく、水神(弁財天)として祀られたことも頷ける。
地図をみると、国分寺のお鷹の道・真姿の池の近くにも弁財天があり、湧水が水神として人々に信仰されたことがわかる。
国分寺崖線に沿って深大寺や等々力不動尊などがあるが、いずれも豊かな湧水があったため修行者の滝行が行われたという。
ハケの湧水が信仰の対象や滝行地となったことがわかる。
神社から東側に進む。この道はハケ下で立川段丘面である。
しばらく歩き、新小金井街道の下を通り抜け、信号を左折すると平代(へいだい)坂の坂下である。
くらぼね坂と同じくまっすぐに長く延びている。
平代坂は上小金井村名主梶平代夫(かじへいだゆう)の名にちなむ(遺跡の説明板)。
標柱の説明では梶平太夫。別名へいでい坂。
坂途中の平代坂遺跡の説明板によると、この遺跡は平代坂の両側の武蔵野段丘上にある。昭和46年の発掘調査で先土器時代・縄文時代・中世の遺構・遺物が出土したとのこと。
縄文時代の遺跡としては中期(約4500年前)の住居址二軒が発見されているとのことである。
これらの遺跡は古代多摩川やハケの湧水と関係するのであろうか。
坂上を右折し、先ほど滄浪泉園へと通った道を反対の東側に進む。
少し歩き右折し、南側に進むと、念仏坂の坂上にでる。
念仏坂は上側が階段で、下側で薬師通りにつながっている。
坂名の由来ははっきりしないが、坂東側の旧家鈴木家の墓があったことにちなむという。
薬師通りを東側に進み、小金井街道の下を通り抜けてから街道に上がると、前原坂の坂下に近いところにでる。前原坂はかなり長いことがわかる。
坂を上るが、やがて右側に先ほどの妙貫坂が見えてくる。坂上の交差点を直進し武蔵小金井駅に戻る。
今回は、前原坂の途中にある妙貫坂に行き、国分寺崖線の上(ハケ上)から滄浪泉園を訪れ、くらぼね坂を下り、ハケ下を戻り、貫井神社、平代坂、念仏坂に行ったが、これらの坂はすべて国分寺崖線に位置し、ハケ上とハケ下とを結ぶものである。
前原坂上の交差点近くから薬師通りに下る質屋坂と、妙貫坂の東側に位置する自伝坊坂に行けなかった。また、なそり坂、大さか坂、中念坂というのがまだある。
この坂巡りは、国分寺崖線に位置する坂ということで、世田谷の坂巡り(1)、(2)に関連する(前の記事参照)が、時間的にはこの方が先である。
国分寺崖線に位置する坂と湧水はまだあるようである。またの機会にしたい。
参考文献
村弘毅「東京湧水せせらぎ散歩」(丸善)
岡崎清記「今昔東京の坂」(日本交通公社)