東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

荷風偏奇館に至るまで(5)

2010年03月28日 | 荷風

「断腸亭日乗」大正9年1月3日「快晴。市中電車雑踏甚しく容易に乗るべからず。歩みて芝愛宕下西洋家具店に至る。麻布の家工事竣成の暁は西洋風に生活したき計画なればなり。日本風の夜具蒲団は朝夕出し入れの際手数多く、煩累に堪えず。」

同1月8日「寒気稍寛なり。大工銀次郎を伴ひ麻布普請場に徃く。」

同3月5日「くもりし空昼頃より晴る。麻布普請場に赴く。近鄰の園梅既に開くを見る。」

同3月11日「午後麻布に行く。帰途愛宕山に登る。春日遅々。夕陽白帆に映ず。藕花の的歴たるに似たり。」

同4月13日「風あり塵烟濛々落花紛紛たり。麻布普請場よりの帰途尾張町にて小山内君に逢ふ。・・・」

同4月16日「半蔵門外西洋家具店竹工堂を訪ひ、麻布普請塲に至る。桜花落尽して新緑潮の如し。」

同5月2日「晴天。麻布普請塲に徃き有楽座楽屋に立寄り夕刻帰宅。」

年が明けると、早速、麻布の家での西洋風の生活のため西洋家具店に行っている。日本風の蒲団の出し入れは面倒だからという理由であるが、かなり合理的な考えである。しばしば市兵衛町の普請場にも行っているが、新居での生活をそのたびに想像したのであろう。

同5月23日「この日麻布に移居す。母上下女一人をつれ手つだひに来らる。麻布新築の家ペンキ塗にて一見事務所の如し。名づけて偏奇館といふ。」

5月23日市兵衛町の新居に移転した。ペンキ塗りであったことから、ペンキ館→偏奇(へんき)館と名づけた。

偏奇館は、麻布区市兵衛町一丁目6番地(goo明治地図参照)で、住友邸背後の角地崖上に、西南に向かって立っていた。

土地は九拾九坪余の借地契約で、地主は荷風が借地したときは廣部銀行の廣部清兵衛であったという。後年荷風はこの土地を坪五拾円余で買い入れた(昭和11年5月27日契約)。

そこに建つ総建坪三拾七坪の木造瓦葺二階建ペンキ塗り洋館は買い入れである。偏奇館は建て増しの厨その他の造作をなしたものである。

荷風は、偏奇館が昭和20年(1945)3月10日の空襲で焼亡する(前の記事参照)までここに約26年住むことになる。以降、「断腸亭日乗」の主要な背景となる。

永井荷風「おもかげ」(岩波文芸書 初版本 復刻シリーズ)には荷風自ら撮影した写真が24枚あるが、写真はその内の一枚で偏奇館外観である。

参考文献
「新版 断腸亭日乗 第一巻」(岩波書店)
秋庭太郎「永井荷風傳」(春陽堂書店)
川本三郎「荷風と東京『斷腸亭日乗』私註」(都市出版)

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