goo blog サービス終了のお知らせ 

日々是好舌

青柳新太郎のブログです。
人生を大いに楽しむために言いたい放題、書きたい放題!!
読者のコメント歓迎いたします。

春埜山天狗と狼護る寺

2020年06月09日 13時11分02秒 | 日記
 春埜山大光寺(はるのさんだいこうじ)は静岡県浜松市天竜区春野町花島22-1にある曹洞宗の寺院。


 地元の人たちから「お犬様」と呼び親しまれている大光寺は、曹洞宗、神仏混交の修験の山として知られています。春埜山は秋葉山と対になり、奥の院である山住神社の里宮であったという説もあります。大光寺の本堂前には、狼の狛犬が控えていて、ここが修験道の狼信仰の山であったことが窺えます。

 守護神の太白坊は春埜山に住む天狗であると言われ、本尊である三尊天を守護するとされています。また、その眷属である狼を派遣し、信者の祈願成就を助けるとのことです。

 大光寺の開山は、養老2年行基菩薩がこの山頂に庵を開いたことが始まりとされています。境内には行基菩薩お手植えと伝えられる、樹齢1300年の春野杉があり、県の天然記念物に指定されています。寛文年間には一時無人となったこともありましたが、江戸時代には復興し、明治の神仏分離令のときにも神仏習合を通し今日に至っています。
 春野町の東端に位置し、「春ひらきし山を春埜山、秋ひらきし山を秋葉山と称す」と伝えられるように、町の両端にそびえる秋葉山とともに北遠霊山の一つに数えられている。
ご本尊は大梵天、帝釈天、閻魔大王、別堂に太白坊大権現。ご利益は悪疫退散、病虫害除。
 この寺の大きな特色は曹洞宗の寺であるのに、いまだ両部神道の色彩が強く、神と仏が同居していることです。



鬼岩寺の開基は行基菩薩です

2020年06月07日 10時34分24秒 | 日記
【山号寺号】楞厳山鬼岩寺(りょうごんざん きがんじ)
【所在地】藤枝市藤枝3-16-14
【宗 派】高野山真言宗
【本 尊】聖観世音菩薩 行基菩薩作

【由緒縁起】
神亀3年(726年)に行基上人により開創されたと伝わる古刹です。寺名は、寺の裏山にある鬼岩(おにいわ)と言われる巨岩・岩穴に由来しており、弘法大師空海が人々を苦しめる鬼を封じ込めた岩穴と伝えられています。境内には鬼が爪を研いだ跡と言われる「鬼かき石」が安置されているほか、黒犬伝説と神犬クロを祀る「黒犬神社」があります。その他、境内からは南北朝から戦国時代までの中世の石塔が多数見つかっており、貴重な歴史資料として市の有形文化財に指定されています。
古代、東海道が直角に曲がる角に位置する鬼岩寺が、旅人の布施屋(宿泊施設)と、街道の魔魅降伏の機能を併せ持ち、その後、一時衰退するが、平安末期には密教寺院として再興され、そして中世、北条氏の影響下で真言律宗に転じ、南北朝時代は今川氏の保護のもと、三昧所(葬地)としての性格を併せ持つようになったとされています。

【弘法大師と魔魅の岩】
 開創してから百年程過ぎた弘仁年間(810~823)、鬼岩寺のあたりに悪い鬼が住んでいて、村人を苦しめていた。ちょうどそこへ弘法大師が通りかかり、鬼退治をしてもらうことになった。大師は不動尊の像を描くと、七日七夜の祈祷を始めました。満願の日、ついに鬼は捕らえられ、大きな岩の中に封じ込まれてしまいました。その岩をよく見るとたくさんの穴があいています。それが鬼を封じ込めたときにできた穴で、以来その岩は「鬼岩」と呼ばれるようになり、また、そこにできたお寺を鬼岩寺と呼ぶようになったのだそうです。
今でも寺の裏山には岩穴があり「鬼岩」とか「魔魅の岩」と呼んでいる。また鬼が鋭い爪を研いだと言われる傷あとの残った「鬼かき岩」(学者の説では玉を研いだ石であると言う)が境内に安置されている。
 その後、鬼岩寺は有名になり、建久3年(1192)には、鳥羽天皇が先帝後白河法皇の追善供養のため、法皇所持の仏舎利二粒を宝塔に入れて鬼岩寺に奉納したという。
【静照上人大蛇退治】
 平安末期の長寛年間(1163~1164)、鬼岩寺の南方2.5キロ程の村の大池に大蛇(竜)が住みついていた。この大蛇は池の近くを通る人々を次々に飲み込んでしまうので、村人たちは困りはてていた。鬼岩寺二世住職であった静照上人は、池のまわりの丘に7ヶ所の護摩壇を築き、天台宗三井寺開山智証大師円珍(814~892)の刻んだ不動明王を祀り、大蛇退散の不動護摩の修法を行った。さしもの大蛇もその法力によって教化され封じ込まれ、広大な池の水も干上って陸地となり、後には田畑として利用されるようになった。霊験あらたかなこの不動明王は、承安3年(1173)鬼岩寺境内に不動堂を築き安置した。人呼んで「池旱不動・いけほすふどう」と称し、今でも多くの人々に篤く信仰されている。鬼岩寺の正面の不動堂に安置され、最近、市の文化財に指定された本尊がこの不動明王である。左の眼は天をにらみ、右の眼は地を見つめている天地眼の不動尊像である。天台宗寺門派では天地眼の不動明王を祀る特徴を持っているから、慈覚大師との関係は深いと言える。
 大蛇を退治した鬼岩寺の静照は、戒走慧三学を究めた名僧として広く知られ、後に源頼朝からも帰依された。頼朝は純錦の自分の礼服をお袈裟に仕立て直して、静照に賜ったと言う。鬼岩寺ではこの静照を中興開山としてあがめている。
 この静照の大蛇退治の伝説は「水上池の悪竜退治」の伝説として、水上村万福寺、志太の九景寺等の開創縁起として伝えられている。それぞれ内容は少しずつ異っているが、水上という地名でもわかるように、大きな池(低湿地帯)があった。中世の時代水上池を開拓し、田畑に変え、食糧の増産を図るため、僧侶による宗教的・技術的指導の下で土地開発が行われた。この開発が伝説として伝えられたのであると、磯部武男氏の優れた学問的研究「水上池の悪霊退治伝説について」(藤枝市郷土博物館紀要三)があるので参照されたい。
【足利義満・足利義教宿泊】 鎌倉時代に入っても鬼岩寺はこの地区の名利として街道に名が知られ、名僧が住職となっている。永仁年間(1293~1298)には良観上人が、また後には鎌倉極楽寺開山の忍性上人が住職となり、二重塔を建立し、その中には、書写した大蔵経を納めたと言われている。
 嘉慶2年(1388)、足利幕府3代将軍義満は、富士山を見物のため下向した時、この鬼岩寺に宿泊した。さらに永享4年(1432年)9月17日、室町幕府の将軍・足利義教は富士山を見るために 大勢の家来を従えて駿河に下りました。駿府に入る前日、将軍は鬼岩寺に一泊しました。その時、裏山に上がって高草山越しに富士山を見物し、和歌を詠みました。それ以後、将軍が富士山を眺めた場所を富士見平と呼ぶようになったのだそうです。富士見平と呼ばれるところには、4世紀末から6世紀にかけて造られた古墳群があります。市内でも最も古い古墳群で、28基の古墳が整然と並んでいます。現在、蓮華寺池公園「古墳の広場」として保存整備されています。
この時のことは、『続太平記』『今川記』『富士御覧日記』等にも詳しく記されている。将軍義教は鎌倉公方の足利持氏に将軍の権威を誇示するため「富士遊覧」と称して、大行列を仕立てて京都から駿河国に下った。飛鳥井雅世、三条実雅、勧修寺教秀の公家や歌人や殿上人の他に、一説には6千騎ともいわれる武士を率いて、「山も川もとどろき渡りけり。」と称される程の大部隊を伴って大井川を越えて来た。駿河国守護職今川範政が出迎え、一行は鬼岩寺に1泊した。帰路にも1泊し、この時鬼岩寺裏の岩田山に富士山を眺めるための望事を築いたという。この故事によってこの山を「富士見平」とか「天がすみ」と呼ばれ、高草山の山越しに富士山が眺められることで有名になった。
文明5年(1473) 歌人の釈正広は富士見平にて、「富士はなお上にぞ見ゆる藤枝や高草山の峰の白雲」という歌を残している。
【飛行舎利】
1568年(永禄11年)より駿河侵攻を開始した武田信玄は、1570年(永禄13年)正月、城主・大原資良以下今川家臣の立て籠もる花沢城に攻め入った。信玄は高草山中腹に布陣し、武田勝頼・武田信廉・長坂長閑らが攻撃を行った。城兵は14日間に渡り奮戦したが、同月27日に降参し開城、大原資良は遠江に退去したと伝わる。月末には田中城を攻略した。この時、武田軍は飽波神社、清水寺、東光寺、遍照光寺等の名だたる神社仏閣を焼き払った。鬼岩寺もこの兵火によって本尊の聖観世音菩薩を除いて貴重な寺宝や記録が残らず焼失した。この時、鳥羽天皇が奉納した仏舎利二粒は、燃えさかる炎の中を飛び出したので、「飛行の舎利」と呼ばれた。信玄はこの舎利を甲斐に持ち帰り、武田勝頼の手を経て高野山に奉納した。江戸時代に入ってから高野山成慶院住職秀雅は、この舎利が藤枝宿鬼岩寺のものであったことを知り、延宝7年(1679)鬼岩寺に返納した。その後、鬼岩寺の復興は慶長7年(1602)幕府から12石の朱印領を賜り、伽藍が再興されてからである。現在の不動堂はこの時建立されたものである。



【黒犬神社】
鬼岩寺の境内に鎮座する境内小社です。このお社は、神犬クロが祀られています。これには次のような伝説が伝わっています。その昔、領主の田中城の城主・本多公は闘犬を好み、洋犬の血を引く土佐犬シロを飼っていました。あるとき城下の鬼岩寺に春埜山から遣わされた狼の血を引く神犬クロがいると知り、殿様の愛犬シロと勝負せよと寺に命じました。城庭の広場で衆人見守るなか、神犬クロはたちまちのうちに殿様の愛犬を咬み倒してしまいました。これに怒った殿様の本多公は、家臣団数百名に命じてクロを追わせました。城下を追い回されたクロは逃げ場を失い古井戸に身を投げて死んでしまいました。このとき火柱が立ち黒雲が湧き起り、百雷のような恐ろしいうなり声が城下に響きわたりました。また異説では春埜山からクロの仲間の山犬の群れが押し寄せて来たとも伝えられています。この神威に恐れをなした本多公は、平伏合掌して詫び、お社を建ててクロを祀ったのがこの黒犬神社だと伝えられています。
黒犬神社は今でも「死しても負けずの神」、武運長久大願成就の守護神として信仰を集めています。春埜山は、狼を遣わすとされた遠州三山、山住、秋葉山、春埜山の内の一つです。この伝説から春埜山の犬飼集団は江戸時代になっても狼犬を貸し出す事業を行っており、その勢力は藩主である大名家を屈服させるほどだったことが分かります。
写真はフェイスブックフレンドの鈴木勲さん撮影です。


鬼平の先祖は焼津小川です

2020年06月07日 09時38分22秒 | 日記
 静岡県焼津市坂本の曹洞宗 高草山 林叟院(りんそういん)は、室町時代(戦国時代初期)の文明3年(1471年)に法永長者と呼ばれた小川城主・長谷川次郎左衛門尉政宣が、賢仲繁哲(けんちゅうはんてつ)を開山として小川(こがわ)に創建した林雙院が始まりです。開基家である長谷川家の“左三つ藤巴”が寺紋とされている。

 修験者の勧めで寺を高草山山麓の坂本に移転したため、明応7年(1498年)8月25日に発生した明応地震(めいおうじしん)の津波被害を免れました。

 境内には、市指定文化財の経蔵・鐘楼(しょうろう)・宝篋印塔(ほうきょういんとう)、市指定天然記念物 ホルトノキ、林叟院開基 長谷川次郎左衛門尉政宣夫妻の墓などがあります。

 池波正太郎の小説「鬼平犯科帳」で有名な、江戸時代中期に火付盗賊改役を務めた長谷川平蔵宣以(はせがわへいぞうのぶため)は長谷川氏の子孫です。長谷川家は藤原秀郷の流れを組む名家で戦国時代に今川家から徳川家へと主君を変えた一族でした。徳川家では三方ヶ原(元亀3年12月22日(1573年1月25日)に、遠江国敷知郡の三方ヶ原で起こった武田信玄と徳川家康・織田信長の間で行われた戦い。信長包囲網に参加すべく上洛の途上にあった信玄率いる武田軍を徳川・織田の連合軍が迎え撃ったが敗退した。)以来の旗本で、家禄は石高400石だが将軍近習の御書院番組の家として続く。

 以下の記述はウイキペディアに拠る。

 長谷川平蔵宣以(はせがわへいぞうのぶため、延享2年(1745年 - 寛政7年5月19日(1795年6月26日))は、江戸時代中期の旗本で、火付盗賊改方の長である火付盗賊改役を務めた。幼名は銕三郎、あるいは銕次郎(銕は鉄の異体字)。家督相続後は父・長谷川宣雄と同じく平蔵を通称とした。池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』の主人公「鬼平」として、日本の時代小説・時代劇ファンに知られている。
 延享2年(1745年)、400石の旗本である長谷川宣雄の長男として生まれる。母の名は不詳で、『寛政重修諸家譜』には「某氏」と記されているが、研究家の滝川政次郎・釣洋一・西尾忠久は宣雄の領地の農民・戸村品左衛門の娘ではなかったかとしている。明和5年(1768年)12月5日、23歳の時に江戸幕府10代将軍・徳川家治に御目見し、長谷川家の家督相続人となる。時期は不明であるが旗本の大橋与惣兵衛親英の娘と結婚し、明和8年(1771年)に嫡男である宣義を授かっている。
 青年時代は放蕩無頼の風来坊だったようで、「本所の銕」などと呼ばれて恐れられたと記録にある。父の宣雄は火付盗賊改役を経て安永元年(1772年)10月に京都西町奉行の役に就き、宣以も妻子と共に京都に赴く。安永2年(1773年)6月22日、宣雄が京都で死去した。宣以は父の部下の与力・同心たちに「まあ皆さんがんばってください。私は江戸で英傑といわれるようになってみせる」と豪語して江戸に戻り、同年9月8日に30歳で長谷川家の家督を継ぎ、小普請組支配長田備中守の配下となった。
 父がためた金も使い果たし、遊廓へ通いつめて当時はやりの「大通」といわれた粋な服装をしていたと伝えられる宣以であるが、安永3年(1774年)、31歳で江戸城西の丸御書院番士(将軍世子の警護役)に任ぜられたのを振り出しに、翌年には西の丸仮御進物番として田沼意次へ届けられたいわゆる賄賂の係となり、天明4年(1784年)、39歳で西の丸御書院番御徒頭、天明6年(1786年)、41歳で番方最高位である御先手組弓頭に任ぜられ、順調に出世していった。火付盗賊改役に任ぜられたのは天明7年(1787年)9月9日、42歳の時である。
 寛政の改革で人足寄場(犯罪者の更生施設)の建設を立案し、石川島人足寄場の設立などで功績を挙げた。しかしこの時、上司である老中首座・松平定信に予算の増額を訴え出たが受け入れられず、やむなく宣以は幕府から預かった資金を銭相場に投じるという方法で資金を得る。辣腕とも言えなくはないが、当時の道徳的には認められるようなものではなく、またこのような手法はかつての田沼意次を思い起こさせるようなものであり、このため意次を毛嫌いしていた定信とは折り合いが悪かった。定信は自伝『宇下人言』において敢えて名を呼ばず「長谷川某」とまで記し、功績は認めたものの「山師などと言われ兎角の評判のある人物だ」と述べたほどであった。また前述のように清廉潔白というわけでもなかったので、『よしの冊子』(定信の元に集まってきた隠密情報を整理した文書)によると「長谷川平蔵のようなものを、なんで加役に仰せ付けるのか」と同僚の旗本たちは口々に不満を訴えたという。
寛政元年(1789年)4月、関八州を荒らしまわっていた大盗、神道(真刀・神稲)徳次郎一味を一網打尽にし、その勇名を天下に響き渡らせる。また、寛政3年5月3日(1791年6月4日)には、江戸市中で強盗および婦女暴行を繰り返していた凶悪盗賊団の首領・葵小僧を逮捕、斬首した。逮捕後わずか10日という異例の速さで処刑している。
非常に有能だが、幕閣(特に前述の松平定信)や同僚(同じ火附盗賊改役の松平定寅・森山孝盛ら)からはあまり信頼されていなかったようで、出世はままならなかった。しかし的確で人情味溢れる仕事振りに、庶民からは「本所の平蔵さま」「今大岡」と呼ばれ、非常に人気があった。宣以も出世できないことを愚痴っていることもあったが、「越中殿(定信)の信頼だけが心の支え」と勤務に励んでいたという。
 寛政7年(1795年)、8年間勤め上げた火付盗賊改役の御役御免を申し出て、認められた3ヵ月後に死去した。死の直前、11代将軍・家斉からねんごろな労いの言葉を受け、高貴薬「瓊玉膏」を下賜されている。東京都新宿区須賀町の戒行寺に供養碑がある。戒名は「海雲院殿光遠日耀居士(かいうんいんでんこうえんにちようこじ)」。長谷川家の家督は嫡子宣義が継いだ。次男・正以は長谷川正満の養子となった。
なお、長谷川宣以の住居跡には、数十年後に江戸町奉行となる遠山景元が居を構えた。
閑話休題。
 平蔵の剣の師匠は一刀流の剣客で高杉銀平といい、十九歳の平蔵が入門したころすでに五十をこえていたが、この人が亡くなったことを平蔵は京都で耳にしている。同門の剣友・岸井左馬之助が知らせてくれたからだ。
 当時、本所の出村町に道場を構えていた一刀流の剣客・高杉銀平は、下総の佐倉の出身で、長谷川平蔵にいわせると、「高杉先生は、江戸も外れの出村町へ、百姓屋を造り直した藁屋根の道場を構え、名も売らず、腕を誇らず、自然にあつまって来たおれたちのような数少ない門人を相手に、ひっそりと暮しておられたが・・・・・名流がひしめく大江戸の中でも、おれは屈指の名人であったと、いまもおもうている」とのことだ。平蔵の愛刀は「粟田口国綱」「井上真改」、脇差に「備前兼光」。師匠高杉銀平から餞別として近江守久道作・一尺七寸四分の脇差をもおくられた。

首塚は大泥棒や金谷宿

2020年05月11日 20時00分55秒 | 日記
日本 左衛門(にっぽん ざえもん、享保4年(1719年) - 延享4年3月11日(1747年4月20日))は、江戸時代中期の浪人の異名。本名は濱島 庄兵衛と言い、諸国を荒らした盗賊(強盗団)の一味で、後に自首して獄門となった。歌舞伎の白波五人男の一人である日本駄右衛門のモデル。

『青砥稿花紅彩画』は、文久2年3月(1862年3月)に江戸市村座で初演された歌舞伎の演目。通称は「白浪五人男」。日本駄右衛門のモデルとされる日本左衛門は尾張藩の七里役の子として生まれる。若い頃から放蕩を繰り返し、やがて200名ほどの盗賊団の頭目となって遠江国を本拠とし、東海道沿いの諸国を荒らしまわったとされる。
徒党を組んで美濃・尾張・三河・遠江・駿河・伊豆・近江・伊勢の八カ国で犯行(主に押し込み強盗)を重ね、諸説あるが、確認されている被害は14件・2622両、あるいは14件・2627両余りと記す史料もある。

可睡斎から遠・駿・豆三国の諸寺院に送った「廻状(かいじょう)」には、日本左衛門の人相や装束など細かく記されており、「背は五尺八、九、年は29歳、見かけは31、2歳、月額(さかやき)に一寸五分ほどの濃い引傷、色白で歯並び普通、鼻筋通り目細く、面長、えりが常に右に偏っている。」などが詳細に挙げられています。

延享3年(1746年)9月、被害にあった駿河の庄屋が江戸北町奉行能勢頼一に訴訟し、老中堀田正亮の命により幕府から火付盗賊改方頭の徳山秀栄が派遣される。これにより盗賊団の幹部数名が捕縛されたが、日本左衛門は逃亡した。日本左衛門は伊勢国古市などで自分の手配書が出回っているという噂を聞き遠国への逃亡を図るも、安芸国宮島で自分の手配書を目にし逃げ切れないと観念。

延享4年(1747年)1月7日に京都にて京都町奉行永井丹波守尚方に自首し、江戸に送られ、北町奉行能勢頼一によって小伝馬町の牢に繋がれた。刑罰は市中引き回しの上、獄門であり、同牢獄にて3月11日(14日とも)に徒党の中村左膳ら6名と共に処刑され、首は遠江国見附に晒された。なお、処刑の場所は遠州鈴ヶ森(三本松)刑場とも江戸伝馬町刑場とも言われる。享年29。
その首を金谷河原町出身の“おまん”という愛人がひそかに持ち帰り、島田市金谷東2丁目 宅円庵に葬ったと伝えられています。

供養塔に刻まれた句「月の出るあたりは弥陀の浄土かな」は、岡本綺堂の作。
日本左衛門の辞世の句は「おし鳥能、人の思以羽か佐成りて、身に青あみ乃名こそ残連る」とされています。

※「おしどりの ひとのおもいはかさなりて みにあおあみの なこそのこれる」
罪人の護送は、罪が軽い場合は山駕籠が用いられ、武士の場合は普通の駕籠に青網をかぶせた「護送駕籠」を使用したと言われています。

領内を荒され、しかも捕縛できなかった遠江国掛川藩主小笠原長恭は、奥州棚倉へ転封となった。棚倉は懲罰的転封先として知られている。

新しき大河内橋開通す

2020年04月15日 15時20分29秒 | 日記
安倍川に架かる静岡市葵区渡の大河内橋が2020年3月28日開通し、地元自治会ら主催の式典が開かれた。行政関係者や地元住民ら約120人が出席し、待ち望んでいた橋の開通を祝った。
橋は長さ165・5メートルで幅8メートル。梅ケ島・大河内地区と市街地を結ぶ道路として重要な役割を担う。1951年に完成した旧橋が増水による被害を受けてきた教訓を生かし、新橋は河川内に橋脚を作らないニールセンローゼ橋という形式で造られた。

旧大河内橋は、一級河川安倍川に架かる橋梁で、昭和26年に架設され、架設後約70年を経過した高齢橋です。幅員が4.5mと狭く、すれ違いが困難な状況にあることから架替え事業に着手されました。
梅ヶ島温泉昭和線(県道29号)は、安倍川上流の梅ケ島・大河内地区と市街地を結ぶ唯一の道路であり、緊急輸送路に位置付けられています。また、地元住民の生活や通学、奥静岡エリアの観光資源へのアクセス道路として重要な役割を担っています。

旧大河内村は1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、横山村、相淵村、蕨野村、平野村、中平村、渡村、有東木村が合併して発足。
大河内橋を渡ったばかりの地域を下渡、その先が上渡と呼ばれます。下渡には旧大河内北小学校の跡地があり、上渡には渡公民館と地域の寺、臨済宗妙心寺派・大森山全福寺があります。全福寺には「精進料理とどろき」があります。
私は下渡にある林道沢山石津線落石防止工事を二か所施工しております。
日本の食文化を代表する山葵、実は有東木が栽培発祥の地です。山葵は日本原産のアブラナ科の植物で、江戸時代に静岡県安倍郡大河内村有東木(現在の静岡市葵区有東木)で、自生の山葵を採取して湧水を用いて栽培したのが最初と言われています。
旧大河内村出身の著名人といえば長谷川 博(はせがわ ひろし、1948年10月3日 - )氏です。氏は、日本の海鳥研究者。東邦大学理学部動物生態学研究室名誉教授。アホウドリを絶滅の危機から救った人物であり、『アホウドリ』から『オキノタユウ』への改称を主張する第一人者です。画像はFBフレンドの朝比奈玄甫さん撮影。

春野まで続く秋葉の常夜燈

2020年04月06日 10時57分39秒 | 日記
第六〇番 安西五丁目地蔵堂。川除延命地蔵尊の地蔵堂が道路拡張工事で間口が狭くなってしまった。地蔵堂の前にある秋葉山常夜燈は静岡市指定有形民俗文化財に指定されている。

安西五丁目地蔵堂は、安西橋の東側のたもと、国道三六二号線(安西通り)の北側に面して建っている。
この国道三六二号線は、安西から羽鳥、藁科、清沢、川根を経て春野町の秋葉山に通じており、かつては「主要地方道静岡春野天竜線」と呼ばれていた。秋葉山は火伏せの神として名高く、そこへ通じる街道沿いには、秋葉山に献灯された常夜灯が各地に残されている。安西五丁目の地蔵堂の境内にも、嘉永元年(一八四八)一一月に再建された常夜灯が建っており、これは馬場町の赤鳥居の脇にある常夜灯と同型のものである。
ところで、江戸時代には安倍川に橋が架かっていなかった。そのため、秋葉山に参詣する人にとっても、安倍川越えは難所の一つだった。川除延命地蔵は、江戸時代の中頃、秋葉神社へ参詣する途中で行き倒れたり、安倍川を渡る途中で流されて命を落とした人を弔うために祀られたと言われている。同時に、安倍川の度重なる氾濫に苦しめられた地元の人々は、この地蔵に川除け、水害除けの祈願を行った。こうして、地蔵に対する信仰は深められたのである。ちなみに、現在の安西橋の場所には、明治七年に「稚児橋」という仮橋が初めて架けられ、その後、明治三二年になって本格的な木橋が建造された。これは蛇足だが「稚児橋」とは浅間神社の廿日会祭に奉納される稚児舞に由来する。稚児舞は現在の静岡市葵区建穂にあった建穂寺(明治初年廃寺)に伝わった舞で、建穂寺より浅間神社に出向いて奉納する習わしであった。建穂寺は秦氏の氏寺として白鳳13年(684)に建立された寺院で、浅間神社には秦氏の氏神を祀った賎機(しずはた)神社が鎮まっていたという。また建穂寺の稚児舞は大阪の四天王寺から伝わったとする伝承もあり、四天王寺舞楽が秦河勝の子孫が掌ったといわれているので、この関係からも相当古い時代にすでに両社寺で舞われていたと推察される。現在は徳川家康奉納の稚児舞として有名だが、これは戦国時代に今川家滅亡とともに衰退したものを、家康が大御所として駿府入城の折、先例にならって建穂寺からの奉納を復活させたもので、以降この舞を舞う稚児は幕臣の子弟から選ばれ、建穂寺から浅間神社へ向かう稚児の行列は、与力・同心などの警護が付き、大名行列並み(10万石相当)の格式が与えられた。また駿府城外堀には加番などの役人が高張提灯を建てて警護にあたり、江戸幕府庇護のもと盛大に行われるようになった。

閑話休題。
川除延命地蔵は、もともと現在の位置に祀られていたが、明治時代以後に通りの南側に移されて、土手の上に東向きの地蔵堂が建てられた。当時のお堂は間口二間程で、地蔵も木像だった。
しかし、昭和二〇年、空襲によって古い尊像と地蔵堂が焼失した。そこで昭和二六年、現在地に間口四間、奥行三間からなる南向きのお堂を建てて、石造りの尊像を安置した。尊像は高さ一二〇センチ程の立像で、左手に宝珠、右手に錫杖をもっている。
地蔵堂の中には、この川除延命地蔵を中心に、左右に一体ずつの地蔵が祀られている。向かって左側の地蔵は石造りの坐像で、高さ約七〇センチ。摩滅が進んでいて古さを感じさせるが、由緒などはわからない。一方、右側の地蔵は高さ八五センチ。裏面に「昭和廿二年八月之建」と刻まれている。この地蔵は、空襲の際にこの近くに墜落して死亡したB二九の搭乗員を弔うためのものである。遺体は地蔵堂の境内に埋葬されたといい、お堂が再建されるまでは、地蔵の隣に小さな石が置かれていたという。
この地蔵堂は安西五丁目の町内会が守っており、毎月九日と二四日にはご詠歌の奉納が行われる。言い伝えによれば、かつては子供が笛や太鼓を鳴らす「ドンチャカ」が行われていたという。大祭は八月二四日。この日には、安西四丁目の大林寺住職による読経が行われるほか、夕方には屋台が立ち並び、参拝者の行列が連なる。また、戦後間もない頃までは、大祭の日に子供の相撲大会や踊りの披露などが行われたというが、平成七年からは二台のみこしが町内を練り歩き、太鼓の演奏が行われるようになった。
話を元に戻す。
藁科川流域の谷筋は古来より重要な交通路であった。谷を遡り分水稜線を越える街道は商いの道、戦の道、そして信仰の道として賑わった。藁科川流域の谷は大きく開け、また分水稜線も比較的ゆったりした地形であるため、古代より自ずと交通路が開かれたのだろう。笹間峠で分水稜を越える道、いわゆる「笹間街道」は大井川流域に通じている。この道は東海道の裏街道として、また駿府から秋葉山への参詣道として賑わった。また、洗沢峠で分水稜を越える道は「川根街道」と呼ばれ、木材集積地としてその賑わいは江戸にも勝るといわれた川根地方に通じていた。武田信玄の侵略を受けた今川氏真はこの道を通って掛川城へ落ち延びていった。しかし時代が移り、人と物の流れが変化した今、これらの峠越えの道はすっかりその様相を変えた。
川根街道もまた、道筋を若干変えた上で国道362号線として今に余命を保っているものの、国道とは名ばかりの車も擦違えない狭いところもある道路であり、その重要性は昔と比ぶべくもない。旧川根街道の起点である昼居渡集落最上部の人家の裏手から、古道と思える一本の道が茶畑を突っ切って背後の尾根へ登っている。途中の八伏集落を経て洗沢に至るこの街道を明治の終わりまで毎日何百人という人々が往復したという。しかし、大正2年、蛇塚集落からいきなり谷筋に下りる車馬通行可能な新川根街道が開削されたことにより、峠道としての使命を終えた。この新川根街道が現在の国道362号線である。
旧清沢村の久能尾集落から黒俣川を遡り、上流の中村集落から支尾根を登って峠に達する道はいわば間道である。
この笹間峠は昭和10年代までにぎわった。毎日「持子」と呼ばれる荷運び人夫が数十人単位でこの峠を往復した。笹間からは茶、椎茸、繭が、久能尾からは生活用品が運ばれた。そして駿府方面からの秋葉山参詣の人々もこの峠を川根笹間へ越えた。昭和10年代に、すぐ隣の清笹峠に車馬通行可能な道路が開削されたことによりこの峠道は使命を終えた。
話は以上でお終いですが、実は改築前の地蔵堂の裏手にあったガードレールは私が管理して設置したものでした。


安西の水月堂をお詣りす

2020年04月05日 16時26分49秒 | 日記
水月堂(通称おはつかさん)は、静岡市葵区安西1丁目南裏に位置し、十一面観世音菩薩を安置し、神選府辺観音霊場(新西国)33ケ所巡礼札所中第26番にして本尊は鎌倉初期の名匠運慶の作と伝えられ国宝的存在でありました。しかし戦災(昭和20年6月20日)で焼失してしまいました。

元亀年間、今を去る事400有余年(405年)前、安倍郡籠鼻(今の井宮町西北部)の圓皆寺(現在は廃寺)の住僧宗文の創建で今川家の臣福島淡路守の夫人然正印智現妙本大姉の開基と伝えられています。
毎月20日を以て御縁日と定め毎年3月には僧侶を招き特別大法要を続けております。「水月堂奉賛会」

水月堂は「今川家の臣福島淡路守の夫人然正院智現妙本大姉の開基」とあります。
然正院智現妙本大姉は福島上総介正成の夫人のことですが、福島(くしま)家というと歴史的資料が乏しく断定的なことは判らない。しかし今川家臣団の一角で小笠原家が入る前の高天神城主としてその名は伝わっています。
福島 正成(くしままさしげ)は、戦国時代の武将。北条綱成・福島勝広の父とされる(正成の父は福島基正と伝わる)。通称は兵庫介、上総介ともされるが明確ではない。姓は「九島」・「久島」・「櫛間」とも表記され、遠江土方城(高天神城)城主だったといわれている。

1873年(明治6年)6月14日 邏卒屯所2カ所開設。周辺部を管轄する屯所が有度郡静岡札之辻町自身番所(現・静岡伊勢丹角)、市中を管轄する屯所が安倍郡静岡安西一丁目水月庵(現・水月堂)に設置。『静岡県警察史』



新コロナ鴎外荘も廃業す

2020年04月03日 08時39分33秒 | 日記

新型コロナウイルスの影響で、東京・上野にある文豪・森鴎外(おうがい)ゆかりの老舗旅館「水月ホテル鴎外荘」(台東区池之端)が令和2年5月末で閉館することが分かった。宿泊などのキャンセルが相次ぎ、約八十年の歴史に幕を下ろす。
敷地内には鴎外が傑作「舞姫」を執筆した旧邸がある。女将の中村みさ子さん(62)は「旧邸を守るため、倒産前に閉館しようと決断しました」と話している。(東京新聞記事)

森 鷗外(もり おうがい、文久2年1月19日(1862年2月17日 ) - 1922年(大正11年)7月9日)は、日本の明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、陸軍軍医(軍医総監=中将相当)、官僚(高等官一等)。位階勲等は従二位・勲一等・功三級、医学博士、文学博士。本名は森 林太郎(もり りんたろう)。
石見国津和野(現:島根県津和野町)出身。東京大学医学部卒業。
鴎外の旧宅・水月ホテル鷗外荘(旧居、東京都台東区池之端)は、鴎外が20代後半に住んでいた住宅であり、最初の妻の実家である磐田の赤松家が、結婚の際に贈ったもので、2年ほどで離婚した時に返却を求めなかった。
その後、売りに出された際、隣にあった旅館の創業者が購入し宿泊できるようにした。天然温泉は都内第1号とされる。
先妻 登志子(1871-1900。海軍中将赤松則良娘)とは、1889年に結婚したが1年半で破綻。登志子は鷗外と別れた後、1900年に再婚先で結核で死亡。登志子との間には長男 於菟(おと、医学者、台北帝国大学医学部教授などを歴任)がいる。
磐田市に残る旧赤松家は、近代日本の造船技術の先駆者で、明治期に磐田原台地に茶園を開拓した海軍中将男爵赤松則良の邸宅跡です。

赤松 則良(あかまつ のりよし、天保12年11月1日(1841年12月13日) - 大正9年(1920年)9月23日)は、日本の武士(幕臣)、軍人、政治家。貴族院議員。
栄典は海軍中将従二位勲一等男爵。通称は大三郎。日本造船の父と呼ばれる。中世の播磨の名族赤松氏の末裔と称する播州網干(現姫路市網干区)新在家の龍野藩御用商人であった廻漕業赤松良則を実父とする幕府十五番組御徒士(御家人)・吉沢雄之進の次男として江戸深川に生まれる。
弘化4年(1847年)、祖父赤松良則の後を継ぎ父の実家である赤松姓となる。先祖の出自から父の経歴まで「赤松則良半生談」に本人が詳しく述べている。祖父赤松良則(泰輔)の墓は網干本柳寺に現存する。咸臨丸にて渡米した際、艦長・勝海舟より、航海中の功績あり、として、礼砲発射の号令を発する名誉を授かっている。
沼津兵学校勤務の際、明治新政府からの出仕を命ぜられても則良は渋っていた。出仕を決意した背景には勝海舟の助言があったと言われる。
妻・貞はオランダ留学に同行した林研海の妹であり、同じくその姉を娶った榎本武揚とも義兄弟となった。また、長女・登志子が森鴎外に嫁する際、媒酌人をつとめたのは、同じくオランダ留学生であった西周である。
オランダ留学中、榎本武揚とともに第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争を観戦しており、その際前線の塹壕まで進み、戦闘を直に体験している。また、その帰路にドイツのクルップ社へ立ち寄り、招待された晩餐の席で、同社社長のアルフレート・クルップと会話している。以上はウイキペディアから主要な記述を抜粋した。


北遠の榜示峠に曰くあり

2020年03月16日 19時25分45秒 | 日記
静岡県浜松市天竜区佐久間町と水窪町を結ぶ[北條(ほうじ)峠]、平安時代末期から鎌倉時代にかけて、天皇方と武家方との土地争いが起こった際、この地を折半するという形で紛争を解決し、[杙]を立てたことから[榜示峠]と呼ばれた。

「角川日本地名大辞典22静岡県」(昭和57年10月発行)の佐久間の「北条峠」の項に、こんな解説がある。
 北条峠(ほうじとうげ)は榜示峠とも書く。佐久間町羽ヶ庄と南野田の境にある峠。標高572m。この峠から北を奥領家と称したことから明らかなように、山香庄の下地中分(「したじちゅうぶん」とは、日本の中世に使用された用語で、荘園公領制下の重層的に入り組んだ支配・権利関係の中で、それぞれの主体が一元的に土地を支配すること(一円知行)を目的にして行われた、土地の分割を指し示す用語である。)の際、地頭方と領家方を分ける榜示石などが置かれた所と推定される。以前はこの峠より西北の尾根伝いに城西村と佐久間村の境界があった。現在は県道水窪羽ヶ庄佐久間線が南北に峠を越える。
 
「北条」という地名は、条里制の名残として今でも残っている地方もあるが、さすがに佐久間の峠に「条里制」はそぐわない。鎌倉時代に、北條家ゆかりの者がこの地を通り信濃に逃れたという言い伝えがあり、その末裔がこの地を訪れた時に[榜示]を[北條]に当て字し、[北条峠]と呼んだともいわれているが、敗残兵が退路に名前を残すなどあろうはずもない。
 
 むしろ「ほうじ」と読むので「榜示(ほうじ)」の意味と考えたほうが分かりやすい。「榜示」とは、国境や地境を示すために立てた杭のこと。村の境には以前も標木を立て、または天然の樹木をこの目的に利用していた。これを榜示といい、その場所を榜示処(ぼうじど)といった。
この「榜示」という地名も全国に残っている。平安時代末期から鎌倉時代にかけて、天皇方と武家方との土地争いが起こった際、この地を折半するという形で紛争を解決し、[杙]を立てたことから[榜示峠]と呼ばれた。「北条峠」も、鎌倉時代に領家方と地頭方との境を示す杭を立てた所のようである。長講堂領(ちょうこうどうりょう)は、中世荘園公領制下における王家領荘園群の一つだが、遠江国山香庄はその一部であった。

奥山郷は五村に分れていたとある。今の周智郡奥山村大字奥領家(おくりょうけ)及び大字地頭方、同城西村大字相月、磐田郡山香(やまか)村大字大井、同佐久間村大字佐久間であるという。前の二村名は単に荘園制度の完備していた時代に、この村の拓(ひら)かれたことを証するのみならず、後日、領家と地頭との間に収納に関する諍訟があって、当時、最も普通なる和与(わよ)手段により、双方の間に下地(したじ)を中分(ちゅうぶん)して、二つ以上の所領となったことがよく分る。

これは蛇足だが、峠の近くに中央構造線の断層粘土が見られるところがある。この辺りはフォッサマグナの西端に位置する。

写真はフェイスブックフレンドの瀧本美知子さんからお借りしました。

安倍口の熊野神社に参詣す

2020年02月02日 14時59分23秒 | 日記
神社名 熊野神社
鎮座地 〒421-2114 静岡県静岡市葵区安倍口新田597
(熊野神社は同名法人が全国に2099社あります。)

熊野神社とは、熊野三山(熊野本宮大社〈本宮〉、熊野速玉大社〈新宮〉、熊野那智大社〈那智〉)の祭神である熊野権現の勧請を受けた神社のことである。熊野詣の盛行や有力者による荘園の寄進、熊野先達の活動により全国に熊野信仰がひろまったことにより、熊野三山の祭神を勧請した神社が全国に成立した。熊野三山の祭神である熊野権現は、その主祭神である熊野三所権現だけでなく、本宮と新宮では他に9柱の祭神が祀られて十二所権現と呼ばれ、那智はさらに1柱多く祀られて十三所権現と呼ばれ、それらも含まれている。

安倍口新田・熊野神社境内の大楠は保存樹木に指定されている。目通り 4.0m 樹高 25.0m。樹齢は300年前後と思われる。安倍口新田が拓かれた慶長、元和から400年余経ちますが熊野神社の勧請はそれより暫らくした後だったことがわかる。
H30.2.26  葵第5号
所在地   葵区安倍口新田 597、598
所有者等  熊野神社氏子総代

このクスの右にも目通り2.0mのイチョウがある。