日々是好舌

青柳新太郎のブログです。
人生を大いに楽しむために言いたい放題、書きたい放題!!
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ゴミ焼いて汚してならず大井川

2012年01月27日 14時37分38秒 | 日記
 清流大井川のほとり静岡県島田市の桜井勝郎市長が受け入れを表明した岩手県山田町、同大槌両町の被災ガレキについては焼却施設のある地元住民から反対運動が起きるなど事態はますます厳しい局面を迎えている。

 この問題がこれほど拗れたのには幾つかの要因があるのだろうが、一つには市長自らが背負っている問題が大きいのではないかと思われる。つまり、桜井氏の市長就任前の経歴は地元企業、桜井資源株式会社の代表者であって、同社は産業廃棄物収集運搬業、産業廃棄物処分業(破砕・圧縮)、一般廃棄物収集運搬業、一般廃棄物処分業などを主な業務としている。しかも島田市の廃プラスチック処理業務を巡る住民訴訟で桜井市長の敗訴が確定しているのである。

 島田市廃プラスチック問題というのは、市長が競争入札を随意契約に切り替え、市長自らが相見積価格を自らが関係の深い会社に漏洩し、その会社が見積額を差し替えたということが住民訴訟の中で暴かれたというものである。競争入札妨害は刑法96条の3に抵触する刑法犯罪であるが刑事訴訟法による3年の公訴時効が過ぎていたために刑事事件としては立件されなかったのである。

 ここまで書けば賢明な読者の皆さんにはお解かりになるだろう。島田市の被災ガレキ受け入れは本来、東京都に次ぐ英断として高く評価されてもよい筈である。しかし、前身はゴミ処理業者で、ゴミ処理に関して汚職の前歴がある市長が高々と打ち揚げた花火だけに島田市民としても手放しでは賛同できないのではなかろうか。

 もう一つの問題は、国や静岡県の姿勢である。静岡県は40年も前から東海沖地震が起きると騒がれているのである。文字通り「明日はわが身」なのである。だとしたら島田市長に任せておくのではなくて、もっと前向きに県として対応したらどうかと思うのである。つまり、被災ガレキ受け入れに対しても国や県の責任が今ひとつ明確にされていないのではないかと思われる。

 被災ガレキの焼却処分は施設を持つ島田市が行うとしても、ガレキに対する事前の放射能検査や焼却灰の放射能検査、仮に放射能が検出されたときの対応或いは損害賠償については国や静岡県がしっかり担保しなければいけない。静岡県はゴミ処理施設を持たないのだから責任を持って県内市町村の協力を仰ぐべきである。

 島田市民の皆さんには科学的な根拠に基づいて冷静に判断していただきたい。
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徹マンを詫びる義理マン身も細り

2012年01月24日 11時16分33秒 | 日記
 私の趣味といえば真っ先に挙げなければならないのが麻雀である。中国由来のこのゲームは紀元前六世紀頃にかの聖人孔子が発明したという俗説もあるが、歴史は意外に新しく、清の同治年間(十九世紀後半)に寧波の人陳魚門が、明代からあった馬吊(マージャオ)というカードゲームと「骨牌」というゲームを合体させて完成させたというのが最も有力な説である。何かの本で読んだ記憶があるのだが、マージャンは紫禁城の後宮三千人と称される女官の間で最も好まれたゲームだったとされ、故に三元牌の白は白粉、發は黛、紅中は口紅であるというのだ。

 ゲームに使用する骨牌の種類には萬子(マンズ)・筒子(ピンズ)・索子(ソーズ)・字牌(ツーパイ)がある。萬子・筒子・索子はそれぞれ一から九までの九種、字牌はさらに三元牌と四風牌に分かれ三元牌は白發中の三種、四風牌は東南西北の四種である。これら三十四種がそれぞれ四枚ずつ、計百三十六枚である。
 ゲームは四人で卓を囲み、サイコロで親を決め、最初に親は一四枚、子は十三枚の牌を配り、順番に一枚捨てて一枚を山から取り、一四枚の牌の組み合わせによって手役を作り勝負を競うものである。

 手役には一飜役の平和(ピンフ)、断公九(タンヤオチュー)から役満の大三元や国士無双まで幾つもの組み合わせがあって、更に大三元で字一色(ツーイーソー)で四暗刻(スーアンコー)というトリプル役満ということだってある。一四枚の牌の組み合わせは無限といってよいくらいにたくさんある。だからマージャンは楽しいのである。

 私は現在、NPO法人「しずおか健康麻将の会」へ入会して「賭けない、吸わない、飲まない」をモットーとする健康マージャンを楽しんでいるが、現役時代は徹夜マージャンも辞さずの心構えで随分と熱中したものである。勝負・かちまけのことを輸贏(しゅえい)というが人間には本能的に勝ち負けに拘るという性質があるようだ。それを一番端的に表しているのが道楽者の「飲み・打つ・買う」の三拍子というやつで、飲むのは酒で食欲、買うのは買春で性欲を満たすためにする。打つとは博打(ばくち)、賭博(とばく)のことである。

 私には変に几帳面なところがあってマージャンの勝ち負けを現場用の野帳に記録してあったのだが、ある年の記録によれば年間一〇〇回ほどマージャンをして二七〇万円ほど勝って三〇〇万円ほど負けていた。麻雀荘ではゲーム代を支払い同時に飲食もするのであるから一〇〇回やって差引き三〇万円の出費は一回あたり三千円であり、私にとってマージャンは安い遊びであった。

 私がマージャンを覚えたのは比較的遅い。商業高校を卒業して一八歳で中堅ゼネコンへ就職した当時も独身寮では盛んにマージャンをしていたが私は仲間に入らなかった。いや薄給の身ではマージャンなどをする余裕はなかったのが真実だ。その会社には五年間勤めたが五年目に入社してきた大学卒の初任給の方が高卒の私の給料よりも少し高かったから頭にきて直ぐに辞めた。次に勤めた中堅ゼネコンでは現場事務に回された。二十三歳の時である。工事現場の事務というのはそれまでの会社勤めに比べれば実働時間は半分以下だが給料は現場手当がついてずっと良かった。

 その現場には宿舎があって寝泊りもできたし賄婦がいて炊事洗濯もしてくれた。ある晩のこと夕食も入浴も済んで休んでいると、労務者宿舎の方から「監督さん。マージャンのメンバーが足りないので入ってくれませんか」という声がかかった。マージャンは出来ないからと断ると、簡単だから、直ぐに覚えられるからといって無理やり引っ張って連れて行かれた。

 初回は練習ということで賭け金なしにして教えてもらった。次の回からはもう千点五〇円での実戦というのが私のマージャン人生の始まりであった。因みにマージャンは3万点を基準としているから点棒を全部取られてしまう所謂「ハコテン」になるとレートが千点五〇円の場合は一ゲームで千五百円の負けということになる。

 さて、一度覚えてしまうと限もなくやりたくなるのが賭け事の悪いところである。それからは仕事が終われば飯場でマージャン、雨が降って現場が休みになれば朝からマージャンという中毒状態に陥っていった。

 マージャンを覚えてからは工事監理の設計事務所や時には発注者の役人を相手にした所謂、接待マージャンにも度々加わった。あるとき東南西北の四風牌を使った四喜和(スーシーホー)という役満が聴牌(てんぱい)つまり和了(あが)る寸前になっていたのだが、設計事務所の監督が相手だったので様子を見ていた。すると私の背後から覗いていた別の監督が「■■君ほら和了牌が出たぞ」というので和了らない訳にもゆかず冷や汗を掻きながら点棒を戴いたものである。接待マージャンの時には現場主任から小遣いが渡されていたので大勝、大敗をしないよう淡々と打つのが仕事であった。

 後年、建設業の営業をしていたころ建設会社の社長連中を相手に千点五〇〇円のレートで打って一晩に七万円ほどを稼いだことがあったがその頃の私の月給は手取り十万円そこそこだった。

 最後に、マージャンは賭け事だから悪事であり、勝ち負けは運やツキが左右するという無責任な説には賛同しない。反対に第六感を無視した確率論だけのデジタルマージャンにも同意できない。
 マージャンは人間相手のゲームであるから確率は勿論のことだが運やツキや流れのほかに第六感を働かせ、メンバー一人一人の人間性まで含めた「読み」の深さが勝敗を左右するし、何よりもツキのないときは無理をせずに静観するという柔軟な勝負勘が肝要である。
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正月が過ぎれば元のメタボです

2012年01月19日 15時26分43秒 | 日記
情けない話だが私は糖尿病患者である。グリコヘモグロビンA1cの値が7.2パーセントくらいある。
一度に肋骨を4本も折る大怪我はしたことがあるが、消化器系は盲腸炎にもなったことがないほど問題なく過ごしてきた。だから食欲旺盛で80キロを超える肥満体である。
しかし、血液検査や血圧測定などでも血糖値を除いて数値は全て標準値の範囲内に収まっている。
主治医が体重を落とせば糖尿病も改善できるからというから食餌療法に取り組んでいるのだが、口卑しい性格の所為でなかなか体重を減らせないでいる。
正月前にはようやく2キロくらい減量できたのであるが、年末年始に飲んだり食ったりしたお陰でまたまた元の木阿弥でメタボ親爺に戻ってしまった。
明日は月に一度の内科検診であるが主治医の小言が分かっているだけに気が重い。
今月からはまた食餌療法を気長に続けて60キロ台のスリムな身体にしたいものである。
年頭の決意表明として此処に書いておく。
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師に学ぶ我が篆刻の技の冴え

2012年01月09日 19時54分49秒 | 日記
 篆刻(てんこく)とは、印章を刻すことであり、主に篆書を印文に刻むことから篆刻と呼ばれている。印章の起源は古く、中国においては夏・殷・周の時代から始まると考えられているが正確な起源についての定説はない。古代メソポタミアでは紀元前三六〇〇年頃の地層から発見された円筒印章の印影が最も古いとされている。古い時代には粘土板や木簡を束ねた縄の封泥に印章を押したものである。その主たる目的は商取引に伴う手紙や契約文書の主体を示すことにあった。

 周王朝の理想的な制度について周公旦が書き残したものとされる「周礼・しゅうらい」に符節(わりふ)を管理する「掌節職・しょうせつしょく」という役職があり、その役職について説明した文章に「貨賄(金玉を貨といい、布帛を賄という)の授受には、璽節(じせつ)を使用する」とあるのが、璽節即ち印章に関する最も早い時期の記録とされる。因みに周というのは紀元前一〇四六年頃に殷を倒して建てられた王朝である。

 秦の始皇帝が中国を統一して封建帝国を建設して以後、印章は権力者の権益を表示するものとなったが、秦代より以前には、普通の人々も、みな金・銀・銅・玉・犀の角・象牙など使って、一寸の璽を作り、龍や虎の形を鈕に刻すのも、自分の好みに従うだけのことであったと古書に記されている。

 現在、盛んに行われている芸術的な篆刻は、明の時代になって文人墨客が「篆刻の道は詩と同じである」という考えのもとに好んで用いたことによる。

 さて、面白くも無い能書きはこの位にして私の趣味とする篆刻とは一体どんなものかを申し上げよう。簡単に言ってしまえば年賀状の芋版である。芋版は薩摩芋に彫るが篆刻の場合は石に彫る。書画の類には必ずといってよいほど落款を捺してあるがあれと想ってもらえれば概ね間違いは無い。

 印材は寿山石や青田石といった軟らかい石を主に使っているが竹の地下茎などに刻むこともある。道具は印刀であるが自転車のスポークを鑢で研いで刃をつければ十分に用を足す。印材と印刀、この二つが揃えば篆刻は出来るのであるが、印材を固定するための印床、下書きをするための小筆、印泥、印箋、篆刻字典などがあれば更に重宝である。

 私は中国浙江省杭州市の篆刻家・王永虎先生が静岡へ見えられたときに王先生の仕事ぶりを半日間ずっと見続けて篆刻のやり方を学んだ。

 私が普段やっている手順を示すと、先ず、印材の表面を調整する。私の場合は新しい砥石で平に研いでいる。

 次に、印文を鉛筆で下書きする。この際に手鏡へ映して印面の逆字を確認する。下書きが整ったら細いマジックインキで印文のデザインをしっかりと書く。

 篆刻には文字の部分を陰刻する白文と陽刻する朱文とがある。白文を彫るときは下書きの線の真ん中あたりに印刀の刃を当てる。黒い下書きの中に白くて細い線の印文が書ける。この段階でもう一度手鏡に映して全体の構成を確認し不具合は修正する。後は下書きのマジックインキにしたがってV字型に彫って線を拡げてゆけばよい。

朱文の場合は下書き線の輪郭に沿って印刀の刃を当て、印文以外の不要な部分を削り落としてゆく。印刀を使う時の要点は石の表面に対して一定の角度をつけることである。

篆刻の済んだ印章は紙面に捺して印影を確認する。私は印箋の代用として古い電話帳を利用している。完成するまでには何度何度も捺印するので古い電話帳は便利である。

 篆刻は印文を選び、書体を選び、印材に刻むという作る楽しみのほかに、印譜などによって先人の作品を鑑賞するという楽しみ方がある。私が好きな篆刻作家は、呉熙載(ごきさい)、趙之謙(ちょうしけん)、呉昌碩(ごしょうせき)などであるがいずれも詩・書・画・印において優れた芸術家でもあった。

 印材や印泥のことなど語れば限がないので今回はこの辺で端折っておく。



◆ 福徳長寿と幾度も印を捺す  
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