日々是好舌

青柳新太郎のブログです。
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韓国は 歴史認識 改めて

2017年06月29日 17時25分16秒 | 日記
 「大韓民国憲法」の前文では、「悠久の歴史と伝統に輝く私たち大韓国民は己未三一運動で大韓民国を建立し(中略)檀紀4281年7月12日に憲法を制定する」 となっている。檀紀4281年とは西暦1948年のことである。

 韓国=大韓民国の独立の宣言は1948年(昭和23年)8月15日に初代大統領の李承晩が行っている。では、憲法前文で大韓民国が建立されたという「己未三一運動」とはどんな運動であろうか。それは1919年(大正8年)3月1日、日韓併合時代の朝鮮半島で起こった、反日暴動のことである。

 この運動を要約すると、33名の宗教家が独立宣言書を作成し、それに共鳴した民衆がデモを起こしたという事件で、デモに参加した人数は多いものの運動は約2か月で収束し、処罰された人数の少なさや量刑の軽さ、何の成果もあげられなかったことを客観的に見ると「建国」とはおよそほど遠いのが実情だったが、彼らに言わせると宣言書を読み上げただけで、大韓民国臨時政府ができたということのようらしい。

 彼らの歴史認識では、その後、大韓民国臨時政府は上海、重慶と場所を移しながら光復軍を創設し、それをもって連合国の一員として日本と戦い、最終的に勝利したことにより自力で独立を勝ち取ったという話になっている。つまり、大韓民国という国は自国の建立の歴史を、国際社会が認めた李承晩の独立宣言ではなく、自分の都合のいいように書き換えていることが、この前文から分かるわけだ。

 このことを、分かりやすく書けば

 朝鮮(清の属国)→大韓帝国(1897年から1910年までの間李氏朝鮮が使用していた国号)→大日本帝国(1910年(明治43年) 日韓併合条約により、大日本帝国と併合する)→アメリカ軍政(1945年8月15日~1948年(昭和23年)8月15日)→大韓民国

 という本来の歴史を

 朝鮮→大韓帝国→日本植民地→臨時政府→大韓民国

 というふうに書き換えているということである。

 以上、韓国が自国の都合のいいように歴史を書き換える国であるという説明です。

 では、なにゆえ建国日にそこまで拘るのかといえば、戦勝国として賠償金をせしめるためであろう。ところが彼らの目論見は実現しなかった。韓国は戦争当事者国ではなくて第三国と位置付けられたのである。三国人という呼び名はこれに基づく。

 1949年3月、韓国政府は『対日賠償要求調書』では、日本が朝鮮に残した現物返還以外に21億ドルの賠償を要求することができると算定していた。韓国政府は「日本が韓国に21億ドル(当時)+各種現物返還をおこなうこと」を内容とする対日賠償要求を連合国軍最高司令官総司令部に提出した。

 日韓基本条約締結のための交渉の際にも同様の立場を継承したうえで、韓国側は対日戦勝国つまり連合国の一員であるとの立場を主張し、日本に戦争賠償金を要求した。

 1951年1月26日、李承晩大統領は「対日講和会議に対する韓国政府の方針」を発表し、サンフランシスコ講和会議参加への希望を表明した。

 また韓国は対日講和条約である日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)の締結時も戦勝国(連合国)としての署名参加を米国務省に要求したが、アメリカ合衆国やイギリスによって拒否された。日本も「もし韓国が署名すれば、100万人の在日朝鮮人が連合国人として補償を受ける権利を取得することになる」として反対、アメリカも日本の見解を受け入れた。

 日韓両国は1965年(昭和40年)に締結された日韓基本条約の付随協約により、当時の国家予算の二倍強の協力金(日韓は戦争しておらず賠償義務がないため賠償金とは呼ばない)を日本が韓国に支払うことにより日韓両国間の請求権問題が「完全かつ最終的」に解決されたことを確認している。

 ちなみに、日韓基本条約の交渉時に日本政府は未払い賃金等の個人債権は直接個人に対して補償すると提案したが、韓国側がそれを断った経緯があるので、条約締結後の個人補償義務は韓国政府にある。

 しかし、韓国政府が意図的に自国民に条約の内容を知らせないでいたため、いまだに多くの韓国民が、その事実を認識していない。もう一つ付け加えれば、この時、韓国は朝鮮半島を代表する国家として北朝鮮の分も受け取っている。だから将来的に日本が北朝鮮に協力金を支払う義務があるとしても、日朝の国交が開始された時点で支払い義務は日本にではなく韓国にあるのだ。

 日韓両国間で最大の障壁となっている従軍慰安婦問題について、ソウル大学で韓国経済史を研究する李栄薫教授は「従軍慰安婦は売春業」と発言したため、元慰安婦らの前で土下座させられ、長時間にわたり罵倒を浴びせられ続けたという。つまり、韓国社会において親日的な発言は自殺行為なのである。

 韓国に対しては謝罪や賠償をしたからといって和解が成立するなどと考えない方がかえって腹もたたないのではないか。




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似ていても仁義と啖呵は違います

2017年06月25日 12時20分06秒 | 日記
 高倉健主演の『昭和残侠伝』という映画があった。

 劇中に池辺良演じる風間重吉が神津組の玄関先で仁義を切るシーンがある。仁義を受けるのは菅原謙二演じる江藤昌吉である。このシ-ンは「軒下の仁義」としてユーチューブにアップされているので是非ご覧いただきたい。フーテンの寅さんとは一味違う香具師の仁義である。

【仁義の口上】

※ 軽い会釈の姿勢のまま、

●:「ご当家、軒下の仁義、失礼ですがお控えくだすって・・・」

○:「有難う御座いやす。軒下の仁義は失礼さんにござんすが、手前控えさせて頂きやす。」

※腰を中腰に落とし、右手の手のひらを見せるように前へ突き出し、そのままの姿勢で、

●:「早速ながら、ご当家、三尺三寸借り受けまして、稼業、仁義を発します。」

○:「手前、当家の若い者で御座います。どうぞ、お控えなすって下さい。」

●:「手前、旅中の者で御座います。是非とも、お兄いさんからお控え下すって・・・」

○:「有難う御座います。再三のお言葉、逆位とは心得ますが、手前、これにて控えさせて頂きます。」

●:「早速、お控え下すって有難う御座います。手前、粗忽者ゆえ、仁義、前後を間違いましたる節は、まっぴらご容赦願います。向かいましたるお兄いさんには、初のお目見えと心得ます。手前、生国は大日本帝国、日光 筑波 東北関東は吹き降ろし。野州は宇都宮で御座います。稼業、縁持ちまして、身の片親(かたや)と発しますは、野州宇都宮に住まいを構えます、十文字一家三代目を継承致します坂本牛太郎に従います若い者で御座います。姓は風間、名は重吉。稼業、昨今の駆出し者で御座います。以後、万事万端、お願いなんして、ざっくばらんにお頼申します。」

○:「有難う御座います。ご丁寧なるお言葉。申し遅れて失礼さんにござんす。手前、当神津組四代目川田源之助に従います若い者。姓は江藤、名は昌吉。稼業、未熟の駆出し者。以後、万事万端、宜しくお頼申します。

●:「有難う御座います。どうか、お手をお上げなすって・・・」

○:「あんさんから、お上げなすって・・・」

●:「それでは困ります。」

○:「では、ご一緒にお手をお上げなすって・・・」

●:「有難う御座います。」

○:「有難う御座いました。」

と、まあ文字に書き写せばこんなところでしょうか。「御座います」は「ござんす」と発音しております。
仁義というのは渡世人同士のパスポート或いは身分証明証みたいなものと考えると理解しやすいと思います。

一方、啖呵というのは「啖呵売」や喧嘩のときに啖呵を切るというように威勢よく歯切れよく発する口上です。
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静岡のお茶の始まり狐石

2017年06月23日 19時02分31秒 | 日記
狐石(きつねいし)

静岡茶発祥の地の足久保には、「狐石(きつねいし)」と呼ばれる日本で一番大きいと思われる松尾芭蕉翁の句碑がある。

天明8年(1788年)、現存する茶舗「竹茗堂」の先祖である山形屋庄八(竹茗と号した)が建てた石碑で、句碑としては日本一の大きさ(幅約8m、高さ約4.5m)だろうとされているものである。

この石には、松尾芭蕉が元禄7年(1694年)に詠んだ「駿河路や はなたちばなも 茶のにほひ」という句が彫られている。

現在、日本一の生産量を誇る静岡茶は、駿河国安倍郡栃沢出身の聖一国師円爾が南宋から茶の種を持ち帰り栽培に適した足久保の地へ播いたのが嚆矢とされる。因みに足久保は釜石峠を越えて栃沢へ帰る途中にある。
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七月の俳句色紙を書きました

2017年06月17日 13時12分15秒 | 日記
故郷の祭太鼓は臍(ほぞ)まで鳴り響く。(季語は祭りで夏)


帰省した息子は自衛隊員で妻はかいがいしく迷彩服を洗濯してやっている。(季語は帰省で夏)



海道は東海道と思えばよいが古代の海道は福島県あたりまで含まれていた。焼津は日本武尊の故事に因む地名で焼津神社に伝わる「荒祭り」の神輿渡御は勇壮である。(季語は祭りで夏)



海や山へ避暑に行くこともない貧しい庶民にとっては切ない大暑である。(季語は大暑で夏)



手相が貧相な手のひらを紫蘇で真っ赤に染めて梅を干している。(季語は梅干しで夏)


通っているリハビリの通所者には切り絵や塗り絵、書道、俳句などを嗜む人がいます。小生も下手な俳句を色紙に書いて掲示してもらっています。
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茄子漬けて糠味噌女房堂に入る

2017年06月10日 09時53分29秒 | 日記
女房と所帯を持った直後に実家から糠味噌の元を少し分けてもらって養ってきた。
あれから40年・・・女房は新妻から山の神に変身した。糟糠の妻は堂より下さずである。糠味噌の味はますます豊かになった。



私が通っているリハビリには日除けのゴーヤが植えてある。リハビリには沖縄出身の職員がいて、ゴーヤチャンプルーなど苦瓜の話が弾む。


私は生ビールは飲むが瓶ビールや缶ビールは飲まない。居酒屋では日本酒を冷でやるのが通例である。


梅干しを染めるのには紫蘇を用いるが、先ず紫蘇の葉をよく洗い、少量の塩でよく揉む。すると青黒い汁がでる。さらに揉んで青黒い汁が出なくなったら固く搾って梅酢に浸ける。すると瞬時にして鮮紅色に発色する。
掌も赤く染まって手相は一段と鮮明にみえる。


夜泣石や子育て飴の伝説で有名な小夜の中山は東海道金谷宿と日坂宿の間にある。「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」という西行法師の和歌でも有名です。
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