大相撲は興行である。本質的にはプロレスとあまり変わらないのではないだろうか。
だから八百長も行われればインスリンを注射して力士を太らせたりもする。国技という美名の下に文部科学省が所管する公益法人としているから何かと問題になるのである。
いっそのこと株式会社にして自由に営業してもらえばかえって真剣な経営努力がなされるのではないかとさえ思う次第である。
私が面白くないのは稀勢の里の大関昇進問題である。
日本相撲協会審判部は大関昇進の目安として直前3場所33勝を公言してきた。稀勢の里は千秋楽に新大関琴奨菊の渡し込みに敗れて10勝5敗の成績に終わった。直前3場所32勝である。
にもかかわらず、土俵態度や将来性があるから大関に推挙するのだという。八百長問題でも一度も名前がでなかったのも理由の一つだという。しかし、これでは不公平であり相撲協会は自ら目安と決めていたハードルを自己都合で低くしたことになる。これまでに直前3場所32勝で大関になれなかった力士はいなかったのだろうか。星一つの違いで負け越しになるのが相撲の厳しさであり、それが相撲の魅力でもあるのだ。
最初に書いたように興行である以上は人気を博して興行収入を得なければならない。だから、横綱も白鵬一人だけではなくて東西二人は欲しいのだろう。横綱・大関陣に日本人力士を一人でも多く増やしたい気持ちも解からなくは無い。
横綱になるのには大関の地位にあって連続優勝するか、それに準ずる成績を上げなければ推挙できない。だから可能性のある力士を先ずは大関にしたいということなのだろうが、現状をみるとなんとか大関らしいのは千秋楽結びの一番で横綱白鵬を破った把瑠都くらなもので琴欧州にしても日馬富士にしても8勝、9勝の大関ばかりである。
これで来場所からは一人の横綱、5人の大関という頭でっかちの番付になるが、大関という地位が8勝さえすれば陥落しないで済むという権威の無い地位にならないように、5人の大関には切磋琢磨していただきたいと切望する次第である。
こんな憎まれ口を叩く私は千代の山・鏡里の時代からずっと大相撲ファンである。
だから八百長も行われればインスリンを注射して力士を太らせたりもする。国技という美名の下に文部科学省が所管する公益法人としているから何かと問題になるのである。
いっそのこと株式会社にして自由に営業してもらえばかえって真剣な経営努力がなされるのではないかとさえ思う次第である。
私が面白くないのは稀勢の里の大関昇進問題である。
日本相撲協会審判部は大関昇進の目安として直前3場所33勝を公言してきた。稀勢の里は千秋楽に新大関琴奨菊の渡し込みに敗れて10勝5敗の成績に終わった。直前3場所32勝である。
にもかかわらず、土俵態度や将来性があるから大関に推挙するのだという。八百長問題でも一度も名前がでなかったのも理由の一つだという。しかし、これでは不公平であり相撲協会は自ら目安と決めていたハードルを自己都合で低くしたことになる。これまでに直前3場所32勝で大関になれなかった力士はいなかったのだろうか。星一つの違いで負け越しになるのが相撲の厳しさであり、それが相撲の魅力でもあるのだ。
最初に書いたように興行である以上は人気を博して興行収入を得なければならない。だから、横綱も白鵬一人だけではなくて東西二人は欲しいのだろう。横綱・大関陣に日本人力士を一人でも多く増やしたい気持ちも解からなくは無い。
横綱になるのには大関の地位にあって連続優勝するか、それに準ずる成績を上げなければ推挙できない。だから可能性のある力士を先ずは大関にしたいということなのだろうが、現状をみるとなんとか大関らしいのは千秋楽結びの一番で横綱白鵬を破った把瑠都くらなもので琴欧州にしても日馬富士にしても8勝、9勝の大関ばかりである。
これで来場所からは一人の横綱、5人の大関という頭でっかちの番付になるが、大関という地位が8勝さえすれば陥落しないで済むという権威の無い地位にならないように、5人の大関には切磋琢磨していただきたいと切望する次第である。
こんな憎まれ口を叩く私は千代の山・鏡里の時代からずっと大相撲ファンである。