日々是好舌

青柳新太郎のブログです。
人生を大いに楽しむために言いたい放題、書きたい放題!!
読者のコメント歓迎いたします。

牛妻は水のきれいな楽園だ

2018年05月25日 19時10分20秒 | 日記
うしづま水辺の楽校は、安倍川の伏流水を引き込み、子どもの水遊び場として整備された施設です。


国土交通省が管轄している国有地で、地元の世話人会が許可を得て管理・運営しています。

世話人会は、地元の牛妻地区の有志で結成されたボランティアで、
①自分たちのいきがいとして 
②将来を担っていく子供たちの活動支援 
③静岡市の中山間地域「オクシズ」の活性化を目標に、一年中活動しています。

イカダ・すべり台・遊歩道・イス・日陰場など、すべて世話人会の手作りです。

私の友人である氷見博さんも世話人の一人でカワニナを調達して蛍を育てたりヤマメの養殖をしたりされております。
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水無月の五句を五色に書き記す

2018年05月21日 14時07分28秒 | 日記
【六月の俳句】

たまゆらの月下美人の花惜しむ 

(よみ)たまゆらのげっかびじんのはなおしむ
たまゆら(玉響)は、勾玉同士が触れ合ってたてる微かな音のこと。転じて、「ほんのしばらくの間」「一瞬」(瞬間)、あるいは「かすか」を意味する。
月下美人はメキシコ原産のサボテン科植物で大輪の花を咲かすが一夜で凋む。季語は「月下美人」で夏。

    
緑陰の車座に湧く英智あり 

(よみ)りょくいんのくるまざにわくえいちあり
木陰で車座になって仕事の段取りを話し合う。三人寄れば文殊の知恵ともいうが皆で相談すればすぐれた知恵が湧き出す。
季語は「緑陰」で夏。

白玉や旅を半ばの人と逢ふ
  
(よみ)しらたまやたびをなかばのひととあふ
白玉は、米の粉で作った団子。旅行の途中で静岡へ立ち寄った友人と氷白玉を食べた。季語は「白玉」で夏。

     
くちまめな婆の音頭や茶摘唄 

(よみ)くちまめなばばのおんどやちゃつみうた
口達者な老婆が音頭をとって茶摘唄を唄う。
季語は「茶摘み」で晩春。
      
病みぬけばじゃがたら芋の花が咲く

(よみ)やみぬけばじゃがたらいものはながさく
脊椎圧迫骨折の痛さに長いこと苦しんだがふと気が付けば季節は廻って馬鈴薯の花が咲いていた。
季語は「馬鈴薯の花」で夏。  
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牛妻は悲恋の昔語りです

2018年05月17日 17時42分50秒 | 日記

昔々、今からおよそ450年くらい前のことですが、竜爪山の南側の山奥に「道白平」というところがありました。
ここは、人がめったに来られない深い山奥で、ここでは大勢のお坊さんが日夜、仏様の教えを学ぶ修行を積んでいました。
ここには修行のために一宇の庵と七つの洞(ほこら)が作られていました。


庵では道白和尚が仏の道の修行にひたすら励み、修行のかたわら野の草花を愛し毎日お酒を飲みながら暮らしていました。
道白和尚のもとには大勢の弟子がいましたがその中の祖益という若者は和尚さんの教えをよく聞くとても利発なお坊さんでした。
祖益は、ひたすら修行に励み和尚さんは祖益の将来を楽しみに見守っていました。


ある日、祖益は修行のひとつの托鉢に城下町に向かうことになりました。
祖益は「和尚さま、今から府中の城下へ托鉢に行ってまいります」とあいさつして出発しました。
祖益は、遠く離れた今川家の館のある府中の街を目指して深い山の中をひたすら歩いてゆきました。


府中の街の今川家の館には「小萩」という奥女中が奉公していました。
小萩は、田野村、今の牛妻の丹野というところの生まれで、とても美しく優しい心を持った娘でした。
祖益が館を訪れるといつも小萩が出てきて「ご苦労さまです」と手を合わせ、心を込めてお米や野菜などをお布施として手渡してくれました。


祖益は小萩に会うたびに「なんて美しく優しい娘さんなんだろう」と、小萩に強い恋心を抱くようになりました。
道白和尚は。祖益の様子から気がついて、「仏の道を修行している者が女性に恋心を抱いては畜生道に堕ちるぞ」と強く諭しました。
しかし、小萩のことをどうしても忘れることのできあい祖益はそれからもずっと小萩を想い続け、とうとう恋の病にとりつかれ看病の甲斐なく死んでしまい地獄の畜生道に堕ちてしまいました。

恋の病で死んだ祖益は、和尚様のいうとおり畜生道に堕ちて一頭の黒いオス牛になってしまいました。
一方、小萩は祖益とのうわさ話が立ったので今川館を追い出され田野村の実家に帰されてしまいました。
そして、祖益が死んでから三年目のある日、一頭の黒い牛が道白平の和尚様のところに現れました。


道白和尚は、この黒い牛が祖益の生まれ変わりであることを知り、祖益が成仏できるように必死で仏さまにお祈りをしました。
小萩も祖益の一途なやさしい気持ちを知り和尚様と一緒になって祖益の成仏をお祈りしました。
やがて熱心な祈りは仏さまに通じ法力によって黒い牛の祖益は成仏することができました。


小萩の生まれた田野村の人々は、ひたすら小萩のことを思った祖益の哀しい心を思い畜生道に堕ち牛になっても小萩のことを想う祖益を哀れみ、この日以後「田野村」を「牛妻村」と呼ぶようになり、坂下地区の橋に「小萩橋」と名付けました。
牛妻にはこんな悲しく、しかし人を想う美しい物語があったのです。
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十重二十重 花に囲まれ ばらの丘

2018年05月16日 12時23分58秒 | 日記
「島田市ばらの丘公園」は、切りバラ栽培が盛んな島田市野田1652-1に平成4年に開園しました。

大井川のほとり、島田市郊外の丘を利用して作られたバラ園です。

春と秋の開花期に来園者を出迎えてくれるのは、世界各地から集めた約360品種・8,700株の色とりどりのバラです。

大温室を中心に丘の斜面や平坦部にバラが植えられ、毎年春と秋には「島田ばらの丘フェスティバル」も開催されます。

近くには島田市中央公園もありますので子供連れにもお奨めです。


写真は2008年5月に撮影された古いものです。
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弾除けの 霊験灼然(れいげんいやちこ) 守り神

2018年05月13日 19時42分03秒 | 日記
 穂積神社の「垢離取り場」です。


 龍爪山穂積神社は駿河の国、静岡県静岡市に位置し、龍爪山に鎮座まします。龍爪山は文殊岳・薬師岳からなり、その昔約千三百年前空海(後の弘法大師)が真言密教を布教の折、当山を訪れたと言い伝えられています。


 当山は古くから山岳信仰の場であり江戸時代までは、神仏習合の龍爪権現様として信仰されておりましたが、明治政府の神佛分離令により神道の穂積神社に改宗させられ小松宮彰親王殿下の命名にて穂積神社の名を賜りました。


 日露、日清、大東亜戦争を重ねるに従い武運長久、弾除けの守り神として、全国津々浦々に知られ、多くの善男善女の崇敬を受け、国家安寧、五穀豊穣、家内安全、被災被弾の守護神として今日に至っております。

 垢離(こり)とは、神仏に祈願する時に、冷水を浴びる行為のこと。水垢離(みずごり)、水行(すいぎょう)とも言う。垢離は漢語には見当たらず、純粋な和語と考えられている。

 神や仏に祈願するときや神社仏閣に参詣する際に、冷水を被り、自身が犯した大小さまざまな罪や穢れを洗い落とし、心身を清浄にすることである。神道でいう禊と同じであるが、仏教では主に修験道を中心に、禊(みそぎ)ではなく水垢離などと呼ばれ行われることがある。

 特に修験道は、神仏習合の山岳信仰による影響から、この水垢離を行うことがある。これらの垢離の行を「垢離を取る」「垢離を掻く」などという。
 
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凧揚げは遠州人の気風です

2018年05月12日 19時29分08秒 | 日記
 横須賀凧の歴史は古く、戦国時代、武田方と徳川方による高天神合戦の際に、敵の陣地の測量や通信手段などに利用されたのが、その始まりといわれています。

 いっぽう横須賀凧が祝凧として多彩になったのは江戸時代になってからです。元禄年間(1688~1703年)、時の城主西尾隠岐守忠尚公の加増を祝って、家臣たちが凧を揚げたことに由来すると伝えられています。そして正徳年間(1711~1715年)には、広く城下町の庶民の間でも凧を揚げるようになりました。

 そして凧揚げはますます盛んになり、しばしば凧に関する城役からの注意書(うなりのついた凧や大凧の禁止令)が発布されたほどです。このように人々が競い凧揚げを重ねた結果、様々な意匠のものが誕生しました。このため凧の種類は多く、20種類以上にもなるといわれています。

 やがて、凧揚げは4月20日過ぎから5月までという期限が定められ季節がら男児の節句祝品として用いられるようになり、今日に継承されています。(遠州横須賀凧遊風会より)

 巴・とんがり・べっかこう・ぶか・奴など20種類以上もの形があります。

「べっかこう」は、大きな赤い舌が特徴で、目は銀色で揚げた時、ぐるぐると回る仕掛けがされています。一説にはかつてこの地方にも訪れていた三河万歳の演者の姿を模したものともいわれています。


「巴」は、上部に初代横須賀城主・大須賀康高公率いる徳川方の「三つ巴」。中段に武田方の菱紋、遠州灘の荒波と風紋、下段に徳川家康の軍扇を配し、遠州灘のこの地で徳川方が武田方を挟み撃ちにしている様子を表しているといわれています。

「とんがり」は、武器の鉾(ほこ)になぞられ尖っているため「とんがり」と呼ばれ、その図柄は鶴、亀、松、竹、梅に波間のほら貝、昆布とめでたいものばかりです。突き進む意で祝凧として人気があります。

「せみ」この形は全国各地に点在しています。大胆な配色と、鮮やかな色彩が特徴です。

「のし」は、古来から、おめでたいときに使われる「熨斗」をあしらった凧です。  
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役に立つ犬の悉平太郎です

2018年05月12日 13時06分29秒 | 日記
 平安時代中期に遠江国の国府が置かれ、江戸時代には東海道28番目の宿場町として賑わった静岡県磐田市見付。その宿場町を小高い丘の上から見守るかのように鎮座しているのが「矢奈比賣神社」です。
 
 御祭神は矢奈比賣命(やなひめのみこと)・菅原道真公(すがわらみちざねこう)・霊犬悉平太郎(れいけんしっぺいたろう)です。

 矢奈比賣神社の社務所からぐるっと裏手に回り境内を出てると、そこはつつじ公園。この公園の一画に霊犬・悉平太郎を御祭神とした霊犬神社があります。 

 悉平太郎は生まれ故郷の長野県では早太郎と呼ばれ、鎌倉時代後期に次のような伝説を残しました。

 見付の里では毎年8月10日の天神祭の夜に村娘を1人、生きたまま棺に入れ人身御供として見付天神へお供えしていました。供えられた娘は怪神に食い殺されてしまうのです。

 ある年、祭りの日に通りかかった旅の僧がこの話を聞き里人を助けようと考え、娘が供えられた神社の様子をこっそりと覗き見ました。すると轟音とともに現れたのは怪神ではなく恐ろしい妖怪。

 この妖怪が「信濃の国にいる悉平太郎には知らせるな」と、悉平太郎を怖がっていることから、旅の僧は信濃(現在の長野県)へ彼を探しに行きました。

 旅の僧が根気よく探した結果、悉平太郎は人間ではなく光前寺で飼っている逞しい犬と判明。そこで旅の僧は悉平太郎を借り見付の里へ。祭りの晩になると人身御供の娘の代わりに棺へ入れ、妖怪が出てくるのを待ちました。

 やがて妖怪と悉平太郎の死闘が繰り広げられ、翌朝、里人が神社を訪れると、そこには年老いた巨体の狒々(ひひ)が血まみれで息絶えていました。一方、悉平太郎は重症を負いつつも生きていました。

悉平太郎の見事な働きぶりに感謝した里人は、光前寺へ大般若経六百巻を書き写し奉納。その後、悉平太郎は無事に帰山したとされています。

 霊犬神社では見付の里を救ってくれたことから、悉平太郎を「神様」としてお祀りしています。
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由緒ある萬年さんのサツキです

2018年05月09日 18時29分27秒 | 日記
萬年家のサツキ。

樹高2.5メートル、直径9メートル、周囲29メートルの大きなサツキです。


樹齢は不明だが300年以上経つ相当な老木です。樹勢は旺盛で毎年5月から6月はじめ頃にかけて濃い桃色の花を咲かせます。
【寛永年間とは、江戸前期、後水尾天皇・明正天皇・後光明天皇の時の年号です。西暦でいうと1624年2月30日~1644年12月16日です。
今年は西暦2018年ですから寛永年間最後の1644年から数えても樹齢は374年ということになります。】


満開の頃は桃色一色の塚のようになり、壮観そのものです。吉田町の文化財に指定されており天然記念物でもあります。
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厄無しの長い木橋を渡りけり

2018年05月07日 11時26分14秒 | 日記
2006年撮影。
蓬莱橋は、明治12年(1879年)牧之原開墾者たちの共同出資により、農業用の橋として誕生しました。

やがて、初倉地区と島田を結ぶ住民の生活路となり、現在では歩行者と自転車だけが通行できる賃取り橋として観光名所になっています。

全長897.4m、幅2.4mのこの橋は、「世界一長い木造歩道橋」として英国ギネス社の認定を受けました。

全長897.4mをヤクナシと読んで縁起の良い橋ということであります。
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長旅に 小野小町も 草臥れた

2018年05月05日 18時57分21秒 | 日記
「小野小町の姿見の橋」です。
場所は藤枝市岡部町、合併前の志太郡岡部町内谷です。

絶世の美女と世にうたわれた小野小町は、父を良貞といって出羽守であった。その一女として生まれた小町は幼い頃からすぐれた才能に恵まれ、その上に容貌がすぐれ、人々の話題にのぼり大評判であった。
小町は成長するのにつれて歌道の修行に励みその作品も立派なものが数多く、歌人の紀貫之からも幾度か賞められていた。

晩年になったある時、京都から東の国へ行く途中に岡部の宿に泊まったことがあった。長旅と病弱の身のため、いつとはなくやつれてしまった。小町はこの宿場の橋の上で立ちどまり野山の景色の美しさに見とれていたが、ふと眼を橋の下の水面に移し、水にうつっている自分の姿を見つけた。自分の姿がひと頃の姿とかわり、やつれ果てていてあまりの変わりように自分の老いの身をなげき悲しんだのである。すぎし昔の面影はどこにも残っていなかったのである。水にうつった姿を疑いつつ岡部の宿を旅立っていったという。
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