日々是好舌

青柳新太郎のブログです。
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五糞書を 是非読みたいと 手紙きた

2019年10月21日 17時52分50秒 | 日記
 ネットで俳人・秋山秋紅蓼を検索したら秋山白兎俳句館がヒットしたのでプロフィールを読んだら著書に野糞の極意を著わした『五糞書』なる奇書があるとのこと、是非拝読したいので一冊わけて欲しいという丁重なる手紙が届いた。差出人は山梨県の方である。書いたのは二〇年も前の話で居酒屋の依頼で書いたものだが当時も小冊子で五〇部くらいだったので今は一冊もないと返事をかいた。ただ、どうしても読みたいというのであれば青柳新太郎随筆集に掲載してあるからと書き添えた。世の中には変わった人もいるから楽しくなる。と、言っている本人が一番の変わり者なのだが。


【五糞書・ごふんのしょ】

 二天一流の開祖、宮本武蔵玄信が著した『五輪書』に野糞の極意は書かれていない。

だが、生きるために食餌を摂れば必ず排泄せねばならぬというのが生きとし生ける物に負わされた宿命である。

しからばここに青柳維新入道白兎が恥を忍んで野糞の極意を伝授しようというのが地・水・火・風・空、五巻の趣旨である。

【地之巻】

この巻では野糞をするときの地理的条件について要諦を述べる。

先ずは足場を確かめることが肝心である。みだりに崖っぷちなどへ近寄ってはならない。

足を滑らせて転げ落ちては怪我をする。どうしても斜面を利用したいときには立木などにしっかり摑まって谷側へ尻を突き出してやるがよい。

無闇に急いで見境なく屈むと障害物で尻を傷つけることがあるので注意を要する。小枝といえども柔らかな尻に刺されば痛い。

蛇、百足、蜂などには特に警戒が必要である。井川大日峠で、こともあろうに恥部を蝮に咬まれて落命した女性の実例を筆者は知っている。

深山、荒野といえども人の通路へ脱糞するのは避けるべきである。

人が飲用する懼れのある渓流などを糞尿で汚染してはならない。

【水之巻】

 この巻では糞と水との因果関係について述べる。

便所のことを手洗いと云い手水(ちょうず)ともいう。厠(かわや)の原義は川屋だという。雪隠(せっちん)というのは禅家の用語だが雪も水の一形態に過ぎない。

かように糞と水との因果関係は深い。

時にして渓流の石を跨いで野糞をすることもあるが、あれは一種の緊急避難であって通常の場合は絶対にやってはいけない。

山間地では下流で飲料水に利用している場合が多いからだ。

野糞を垂れたあと手を洗う水が無いときは、水のある所まで辛抱するより仕方がない。

しかし不運にも糞で指先などを汚してしまった場合は、柔らかな草の葉などをよく揉んで拭いとるとよい。何事も工夫が肝心である。

【火之巻】

 この巻では野糞を垂れる時の身構えについて述べる。

登山愛好者などが山で雉を撃ちに行くと言えば野糞をしに行くことだ。女性の場合は花摘みに行くなどと言う。雉を撃つ時の射撃姿勢は銃をやや中腰に構えるらしい。

野糞の姿勢も始めはやや腰を浮かせ気味に入り、周囲の状況が安全であることを確かめてから、もう一段、腰を落とすとよい。花摘みの場合も要領は同じである。

俗に、蛇が女性の恥部に侵入したとか言う話を耳にするが俄かには信じがたい。蛇といえども天岩戸(あまのいわと)と石垣の隙間との識別はつくはずである。

あれは、蛇が鎌首を擡げるのと股間の一物が勃起するのを卑猥に連想した想像上の被害ではないのか。しかし、蛇は人の数十倍も温度の変化に敏感である。いきなり射程距離内に人間の体温を感知すれば餌と勘違いして咬みつくのは当然である。

従って、露出する身体の範囲で温度の高い部分すなわち放尿時の恥部は最も危険な箇所といわねばならない。屈んで用を足す女性の場合は特に注意が必要である。

毒蛇の害から身を守るためには手頃な棒切れなどで草叢を叩いて安全を確かめる方法が最もよい。蛇は霜が降りる頃になると冬眠に入るので晩秋から早春にかけての低温期は安全である。

【風之巻】

 この巻では野糞の後始末について述べる。

野糞であれ尻を拭う紙があれば問題ない。雑誌、新聞紙などで代用する場合はよく揉んでから使用するとよい。紙の代替品を自然界に求めるとすれば、蕗の葉などの広くて柔らかいものが最適である。柔らかな草を束にして使ってもよい。木の葉などは青葉よりも落ちて湿ったものの方が柔らかでよい。

尻を拭うのに、滑らかな肌の石とか藁縄などを使用した例もある。パンツ、ステテコ、タオル、ハンカチなどを尻拭きに使うのは邪道である。

己の糞は猫でも隠す。所謂、猫糞(ねこばば)である。万物の霊長たる人間が糞を隠さないとすれば猫にも劣る。糞は土で覆うのが最善だ。土に含まれるバクテリアが分解を早める。次いで、砂、砂利、小石、礫と続く。

尺を超える石の場合はあらかじめ石を外して出来た穴に用を足し、事後に元のように石をはめ込んでおくとよい。土石がうまく利用できない時は落ち葉、枯れ草などで充分に覆うがよい。それも出来ない時は棒切れでも立てればよい。要するに、後から来た人に不愉快な思いをさせないことこそ野糞常習者の大切な心掛けである。

【空之巻】

 この巻では野糞の奥義について述べる。

野糞の深奥は「融通無碍・ゆうずうむげ」である。一切の拘りを捨てさり自由な境遇、無我の境地に身を置くことである。

人間には道徳、礼儀、常識など様々な束縛がある。だから座敷や台所へ糞をする人はいない。道路の真ん中や他人の屋敷も除かれる。しかし道路の脇の側溝や畑ともなると筆者にとってはしばしば絶好の排泄場所となる。

脱糞は便所で、という頑冥な固定観念を捨てなければ到底、野糞の名人上手にはなれない。身を山野の草木土石に同化させることが肝要である。

人は鳥獣蟲魚の仲間である。己を空しくすることが野糞上達の秘訣である。

野糞の場所を無闇に選んではいけない。何処へでも用が足せなければ達人とは言えない。工事現場などの人がいるところで糞をひるためには若干の小道具がいる。新聞紙でもベニヤ板でもダンボール箱でも何でもよい。

後ろに遮蔽物があって前だけ隠せばいいような場所を選び、新聞紙を両手でひろげて読むような格好でしゃがむ。顔の表情はいかにも新聞を読んでいるように装うことが秘訣である。ダンボール箱の場合はコの字型に囲う。いずれにせよ素早く事を済ますことが肝要である。

このときビニール袋とかセメント袋などがあれば大きい方だけ載せるとよい。後始末が楽である。

「何いってやんでぇい。いいかげんにしねぇかい。糞ったれ野郎っ」

読者諸兄の罵声が聞こえてくるようである。野糞に極意も秘伝もありはしない。ただ尻の穴のしまりが悪い情けない男の戯言である。

完。



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尺八の名人がいた龍泉寺

2019年09月04日 14時39分21秒 | 日記
フェイスブック友の伊藤彰氏から写真を頂いた宝台院の境内にある「尺八碑銘」について調べてみた。
以下は「駿府猫猫齋」さんの記述を参考にまとめました。

宝台院(ほうだいいん)は、静岡市葵区常磐町二丁目(旧下魚町)にある浄土宗の寺院。山号は金米山。寺号は龍泉寺。本尊は阿弥陀如来。江戸時代には江戸幕府から朱印状も与えられていた。寺の創建は室町時代である。
境内に「尺八碑」が建てられている。この碑については,小菅大徹(2017)「江戸時代における尺八愛好者の記録 ~細川月翁文献を中心として~」(虚無僧研究会発行)の中で詳細に記述されている。

「細川月翁」は熊本藩の支藩・宇土の江戸中期の殿様。二代目黒沢琴古に師事し、自ら製管をするほどの尺八好きで、多くの貴重な資料を遺した。

碑文によれば,この碑はこの地で尺八を教授していた柳井青翁師の功績をたたえ、1890年(明治23年)に師が64歳になったのを期に師を顕彰して門人が建立したことが書かれている。建立の主唱者として、静岡県内の35人、愛知県の1人、石工1人の名前が刻まれているが、中には10人以上の竹名の人物がいる。女性も2人以上含まれているようだ。

明治23年、既に碑を建立するほどに尺八が普及していて、さらに竹名を授与する(または「承認する」)ほどに尺八の組織もできていたということに驚く。



なお,この宝台院は徳川家康の側室「西郷の局」の菩提寺であり、大きな墓石が建立されている。また,キリスト禁教令が出るまで家康の侍女「ジュリアおたあ」らが信拝したという「キリシタン灯籠」も保存されている。宝台院は、明治元年(1968年)に江戸幕府が倒れた後、徳川慶喜が明治2年(1969年)に市内に居所を得るまで約1年間謹慎したお寺でもある。


【碑文】
柳居青翁者東京人名直孝舊稱半兵衛糟谷氏世爲幕府臣夙有隠逸之
志年既壯矣譲家其弟受吹笛法於荒木古童終極秘奥又喜俳諧歌煎茶
式等超然遊于物外明治十七年五月静岡寳臺院主謙賀愛其爲人延為
賓師乃移院中居數年最留心古曲無所不推究遂補修之蓋出于其自得
也今年六十又四門人相謀建石勒銘以代壽碑因請余銘銘曰
   虞舜作簫 律呂和調 厥形參差 厥音超遥 星移物換 曽不絶@
   或稱尺八 猶?九韶 李唐高僧 呪經升天 張伯一叫 □雲爲穿
   十又六世 張參?傳 我僧法燈 渡海問禪 受業出□ 悟空入玄
   歸朝建寺 法侶滿筵 創意截竹 不復用編 一?五□ 美之吹之
   如喜如泣 如訴如悲 上下鬼神 感動婦兒 爲布教□ 設後世規
   尺八之稱 遍于四維 ?人嘯月 遺懷慰思 義士晦跡 避險去危
   世勢一變 教法敗懷 新政漸興 舊物盡廢 國多野調 郷乏豎篴
   嗚呼青翁 不顧人言 及其未絶 餘音尚存 刻苦研究 夙夜弗諼
   濯足東海 寄身寺門 訂曲校譜 誘掖後昆 惟斯奇行 豈無淵源
   壽興石堅 長頌聖恩
   明治二十三年十月           關口隆正撰文并書

      *□=読めず。?=何の字かわからず。@=“竹+秋”の字。

柳居青翁は東京の人。名は直孝、旧称は半兵衛。糟谷氏。世々幕府の臣たるも、夙に隠逸の志あり。年 既に壮たるや、家をその弟に譲りて吹笛の法を荒木古童に受け、終に秘奥を極む。又、俳諧・歌・煎茶式等を喜び、超然と物外に遊ぶ。明治十七年五月、静岡宝台院主謙賀 その人と為りを愛し、延(ひ)きて賓師と為し、乃ち院中に移す。居ること数年、最も心を古曲に留め、推究せざる所なく、遂に之(これ)を補修す。蓋しその自得に出るなり。今年六十又四。門人相謀りて石を建て銘を勒し、以て寿碑に代えんとし、因りて余(=関口隆正)に銘を請う。銘に曰く:
虞舜 簫を作る   律呂は和調し  その形は参差  その音は超遥
星移り物換るも  曽て*を絶やさず  或いは尺八と称し  猶■九韶
李唐の高僧  経を呪して天に升る  張伯一叫するや  雲■穿と為す
十又六世  張参■伝  我が僧法燈  海を渡り禅を問う
業を受け出■  空を悟り玄に入る  帰朝して寺を建て  法侶 滿筵す
創意もて竹を截し  復たは編を用いず  一■五■  これを美としこれを吹く
喜ぶが如く泣くが如く  訴えるが如く悲しむが如し  上下の鬼神  婦児を感動せしむ
布教■  後の世規を設く  尺八の称  四維に遍し(注:*=竹+秋 の字。ふえ、の意。)
■月に嘯き 懐を遣り思を慰む 義士晦跡し 険を避け危を去る 
世勢一変し 教法敗壊す 新政漸く興り 旧物尽く廃せらる
国に野調多く 郷に豎篴乏し ああ青翁 人言を顧みず
其の未だ絶えざるに及ぶ 余音尚存し 刻苦研究し 夙夜諼するなし
足を東海に濯い 身を寺門に寄す 曲を訂し譜を校す 後昆を誘掖す
惟うに斯の奇行 豈に淵源なしや 寿きて石の堅きを興し 長く聖恩を頌す

愚生が想うに、一■五■のところは尺八の寸法、一尺五寸ではないでしょうか。





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氏子衆やまめ祭りの注連を綯う

2019年08月27日 10時23分16秒 | 日記
大井川最上流部に位置する田代の人々は、嘗て、南アルプスの広大な山々で大規模に焼畑農耕を営んできた。「ヤマメ祭り」は、田代の氏神である諏訪神社例大祭の通称です。諏訪神社は、信濃国諏訪大社の分社で嘉禎年間(1235~38年)に山を越えて勧請されたという伝承が残っている。

諏訪大社の創建の年代は不明だが、日本最古の神社の一つといわれるほど古くから存在する。『梁塵秘抄』に「関より東の軍神、鹿島、香取、諏訪の宮」と謡われているように軍神として崇敬された。また中世に狩猟神事を執り行っていたことから、狩猟・漁業の守護祈願でも知られる。井川の人たちの先祖が信州から移り住んできた歴史を象徴するものと言える。現在の御本殿は、総ヒノキ造りで、明治36年に造営された。参道入り口の鳥居左側には水が湧き出していて「御井戸」と呼ばれ、銘水として知られている。

例大祭は、特殊神饌「ヤマメずし」が神に捧げられることで知られている。塩漬けのヤマメに粟をまぶして作るこのヤマメずしは、熟れ鮓の原初的な製法を今に伝えるものとして注目される。
ヤマメずしの材料となる粟は、今も焼畑で栽培されている。またヤマメも、普段は禁漁区とされる神聖な谷「明神谷」で釣り、その場で「魚釣り祭り」という捕獲儀礼を行う。
焼畑や猟によって生活を営んできた、かつての山村の生活文化を象徴する祭りといえるだろう。この祭りを含む諏訪神社の行事は平成17年11月29日静岡県指定無形民俗文化財に指定されている。保存対象団体は諏訪神社氏子会である。

焼畑が行われなくなった今でも、集落周辺の畑で雑穀が栽培されている。その種類も様々で、ショウガビエ、ケビエ、ネコアシ、コウボウキビ、ホモロコシなど、10種類ほどの雑穀が確認できる。それに伴って雑穀を使った多様な伝統食も受け継がれている。
正月に粟で作るカミノモチや、コウボウキビの焼餅。深みのあるおいしい雑穀食は、稲作文化とは異なるもうひとつの農耕文化が、たしかにこの奥深い山里に息づいていたことを教えてくれる。

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吉原の秘技も知らずに破門さる

2019年08月18日 13時06分13秒 | 日記
フェイスブックの元友達から絶縁されてしまった。経緯は次のとおりである。「不易流行」という題のブログについて読んだら「いいね!!」を押して欲しいということだった。

ブログは「1778年 信州川中島より神来る。」と駿河風土記に書かれている。町内(本通二丁目)に祀られている八朔神社の大祭が1日に行われた。と、いう書き出しであった。
八朔神社の特殊神事として、迎神の儀が有る。つまり大祭の前日に春日の国道とJR線の間に有る場所にお迎えに行くのである。祝詞を春日で奏上し、神様をお連れして神社に戻り、前夜祭の儀式を行う。翌日の8月1日 朝10:30~より本祭を行う。神事を行い、皆で奉納酒を戴き、閉式となる。
本通二丁目の自治会は3組70世帯の小さな町内でありますが、単独町内の社として、八朔神社は240余年の長きにわたり、鎮守神として脈々と続いている。
戦前は吉原での秘技であった技が、現在では各家庭で行われている。(流行)と、書いてブログは終わっている。

私はこのブログに対して「不易流行は俳句を齧っている者として一応の理解はありますが、戦前は吉原での秘技であった技が、現在では各家庭で行われている。(流行)・・・ これが何をさすのやら全く分かりません。八朔神社の由来もわかりません。謎の多い文章です。」とコメントした。そして「不易流行」が本筋の話なら「奥の細道」や「去来抄」にも触れるべきだろうし「八朔神社」が本筋の話ならば祀られている主神や神社の縁起に触れるべきではなかろうか、と書いた。これが相手の逆鱗に触れたのであろう。
少し噛み砕いて話を進めよう。

慶長14年(1609)の駿府町割によって、家康公は古い東海道の道筋であったこの通りを本通(ほんとおり)として、新たに新通(しんとおり)を作らせて東海道の道筋を変更した。つまりバイパスである。昔からの本通は、家康公の時代になると東海道からはずれ、新通が中心となった。地内には時宗の一華堂長善寺があり、家康公から寄進された茶釜がある。これは播磨(はりま)高砂「尾上の釜」(釣鐘)の形で、釜の正面に「播磨高砂」の文字がある。伝承によると家康公のおばあさん(源応尼)が、毎月1度はこのお寺に来て茶をたてたという。

一華堂乗阿とは、江戸前期の和学者・歌人・時宗の僧。甲斐生。武田信虎の子(一説に猶子)。号は乗阿・一華堂・一花堂。駿河長善寺の体光に入門、同寺住職となる。高井尭慶・冷泉為和・三条西実枝らに学び、実枝から古今伝授された。後陽成天皇に進講、また、林羅山・菅玄同らにも『源氏物語』を講義した。晩年は京都七条道場金光寺に住した。元和5年(1619)歿、89才(一説に80才)。

川中島から神が来たという1778年は安永(あんえい)年間で明和の後、天明の前。1772年から1781年までの期間を指す。この時代の天皇は後桃園天皇、光格天皇。江戸幕府将軍は第10代徳川家治の治世である。

神を迎えに行く春日の国道とJR線の間に有る場所とは、「東海道府中宿東見附」。つまりここから「府中宿」という場所であろう。驛傳馬の制度は律令国家の成立とともに整備されたが、当時から安倍郡横田郷は駿河国の五駅六伝馬の一つとして主要な宿駅であったようで、平安期に書かれた『延喜式』などにも見える。以来、横田町近辺は東海道府中宿の中核として江戸期の上伝馬町、下伝馬町に至るまで宿駅としての役割を連綿と続けた。

「不易流行」、芭蕉は江戸を出て95日、越後・出雲崎に到着。この地で詠んだ句こそ、芭蕉が目指した“風雅”の境地を表していると言われます。“荒海や 佐渡によこたふ 天河”時を超えて変わらない、荒海と天の川。その真ん中に位置する佐渡が象徴する、変わりゆく人間の営み。それを芭蕉は「不易流行」と言いました。「不易」とは、永遠に変わらないもの、「流行」とは常に変わりゆくもの。それが同時にこの世にあることを詠む。その「不易流行」という概念こそが、芭蕉が見出した五七五の境地だったのです。
さて、吉原の秘技についてであるが、私は以前、吉原遊郭に伝わる毛生えの妙薬について一文を書いたことがある。その妙薬とは桑の葉であるがパイパンつまり土器(かわらけ)の遊女に毛をはやしてやろうという秘技である。しかし、ブログの秘技はそうではあるまい。

江戸・吉原の遊女たちにも八朔の風習があり、白い小袖を着て客を迎えていたそうである。八朔は、徳川家康の江戸入りした日とされることから、江戸時代にはもっとも重んじられていた行事で、この日を祝うために遊女はみな白無垢を着て、「花魁道中」を行った。吉原の年中行事「八朔」の由来には諸説あるが、とても寒い八朔を迎えたある年、夕霧太夫という遊女が白い袷ではなく白い小袖を着たことより、以後、白い小袖を着ることが慣例化したという説がある。のちに、その習慣は広がり、まだまだ暑さが残るこの時期に白無垢を着るという我慢や見栄が、江戸の『粋』だと言われていたそうだ。。
画像出典:静岡市葵区自治会連合会ブログ。
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坂下延命地蔵堂(さかしたえんめいじぞうどう) その2

2019年08月03日 13時04分47秒 | 日記
坂下延命地蔵堂(さかしたえんめいじぞうどう)

(鼻取地蔵の話)
むかしむかし、ずうっとむかしのこと。ある日、一日の仕事をおえて牛をひいて帰ってきたお百姓(ひゃくしょう)さん。どうしたことか急にひいてきた牛が、いくら手綱(たづな)を引いても動かなくなりおお弱り。 「どうしたものか。困ったな」と思案(しあん)していると一人の子供があらわれた。牛の鼻をとって声をかけたかと思うとらくらくと動かした。 喜んだお百姓さん、ちょっと目をはなしたすきに子供の姿を見失ってしまった。どこへ行ったものだろうと、残った足あとをたどりたどりしていくと、地蔵堂の中まで続いてお地蔵さんの前で消えていた。 さてはお地蔵さんの化身(けしん)の子供だったのかとお百姓さんは驚いたりおそれいったりでした。 このことがあってこのお地蔵さんを、牛の鼻を取ってくれたということから「鼻取り地蔵さん」と呼ぶようになったという。 牛の鼻を取ってくれた、お百姓の手助けをしてくれたというので農家の人々の信仰が厚く、願掛(がんか)けのお礼にあげた鎌(かま)がお堂の中の板壁(いたかべ)にたくさんたてかけてある。中には紙で作ったものも木で作ったものもある。 「お地蔵さんはお百姓さんの守り神」と毎年八月の二十三、二十四日の両日盛んなお施餓鬼(せがき)が今も行われている。
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南麼(なうまく)坂下延命地蔵堂

2019年08月03日 12時49分50秒 | 日記

坂下延命地蔵堂(さかしたえんめいじぞうどう)

建立年代、建立者は不明。元禄13年(1700年)に、岡部宿の伊藤七郎右衛門、平井喜兵衛、中野陣右衛門の3人が発願して地蔵堂を再建し、堂内の仏具をそろえ鴻鐘を新たに鋳して鐘楼も建立した。霊験あらたかと村人や近隣の人々に信仰され、その霊験あらたかさを示す二つの伝説「鼻取地蔵」「稲刈地蔵」が残されている。 堂内には地蔵菩薩像が安置されており、この地蔵尊は宇津ノ谷峠を越えようとする旅人の安全を守り、また、堂前の木陰は旅人の疲れを癒した。今でも8月23、24日の大縁日には、串に差した十団子をお供えして供養をしている。また、新盆供養のために遠方からも参拝客が訪れる。


(稲刈地蔵の話)

岡部から丸子に通じる宇津ノ谷の手前の坂下に地蔵堂がある。かつての東海道は難所だったので、旅行く人の守り本尊(ほんぞん)として信仰が厚かった。里人の話によれば、本尊は聖徳太子の作で、霊験(れいげん)あらたかとされている。 いつのころかはっきりしないが、榛原地方に一人のはたらき者の青年があった。よく親に孝行をつくし、仕事もまじめにいっしょうけんめいにやったので、村人はこの青年を「りっぱな者だ。感心だ。」とほめていた。 その年の秋の稲刈(いねか)りの最中のこと、たまたまお伊勢(いせ)まいりの話が出て、仲間からぜひ行こうと誘われた。日頃から信仰の厚かったこの青年も、一度はお伊勢まいりをしたいと思っていたので心はあせった。数反歩(たんぶ)の刈(か)り取りをしなければならない身をなげいて、同行の人々に出かけるについての悩みを語った。広い田の面を見てなげく青年の気持はまことにあわれであった。 夜もねむれぬまま青年は朝早くかまを手に田に出かけた。出かけるまでに刈れるだけ刈ろうとしたのである。 出かけてみて驚いた。田を見れば不思議なこともあるもので、一夜のうちに全部が刈りとられているのである。わが身をうたがい、目をこすり、目をこらして見なおした。たしかに自分の田である。誰が刈りとったのか、きちんと刈ってきちんと干してある。あまりのことに驚きながら家に帰れば出発のまぎわである。あまりの出来事に驚き、それでも大急ぎで準備をしてお伊勢まいりの旅に立った。 道中、何のさわりもなく、無事におまいりもすませた。同行の中に一人だけ府中(ふちゅう)(今の静岡市)から来たという若者があった。道々、旅は道づれとこの若者と親しくなったが、その友人の親切は人並みではなく、はじめて旅をした青年に何くれとなく心を配ってくれた。 青年は不思議な親切をなぞに思いながら、無事年末のお伊勢まいりの夢をはたして帰路についた。が、数日の同行の縁に別れがたい思いから、この若者を府中の途中まで送っていこうとして、旅の話をあれこれとしながら歩いて宇津ノ谷峠の坂下までたどりついた。その時その若者は坂下のお堂の中へ入っていった。青年は「何をしに入ったのだろう」とお堂の中へ後を追ったが、煙のごとく消えて若者の姿はなかった。 あまりのことに驚いて今までのことを思いかえした。出発前の稲刈りのこと、お伊勢まいりの道中の親切などから、青年は、はたと気づいた。「この若者はお地蔵様の尊(とうと)いお姿の変わり」だったのである。 青年はこの事があった後、なおも一層仕事に精を出した。話を伝え聞いたこの地方の村人もお地蔵まいりを熱心にし、願掛(がんか)けをしたり、いろいろな奉納をしたりした。お堂の壁に農器具のかまやくわが掛けてあるのは、農事の豊作祈願の名残りだといわれる。また、このお地蔵様は「鼻取り地蔵」とも呼ばれて、別の言い伝えも残されている。





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やつがれは弱り八月盆の暮れ

2019年07月22日 20時02分19秒 | 日記

◆氏素性糺せば怪し兜虫
(よみ)うじすじょうただせばあやしかぶとむし
氏素性とは生れや家柄、家系、経歴ということ。兜を被るのは一廉の武将ということだが、カブトムシは牛糞堆肥などに生ずるものだから氏素性は必ずしも誇れるものではない。季語は「兜虫」で夏。

◆鶴嘴を提げて九字切る油照り
(よみ)つるはしをさげてくじきるあぶらでり
風がなく、薄日がじりじりと照りつけて、じっとしていても汗のにじみ出るような天気を油照りという。鶴嘴は土工具。九字を切るとは「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前」の九字の呪文と九種類の印によって除災戦勝等を祈る作法である。季語は「油照り」で夏。

◆兜虫愚直の糸を張り通す
(よみ)かぶとむしぐちょくのいとをはりとおす
カブト虫に糸を付けて放っておくと逃げたい一心で糸は真っすぐに伸びます。季語は「兜虫」で夏。

◆ぬばたまの夜風がよどむ稲の花
(よみ)ぬばたまのよかぜがよどむいねのはな
射干玉(ぬばたま)はヒオウギの種子。球形で黒く光沢があることから黒・夜・髪・夢・夕・宵などに掛る枕詞になっている。季語は「稲の花」で夏。

◆炎天の短き影が杭を打つ
(よみ)えんてんのみじかきかげがくいをうつ
炎天下では太陽は真上にあるので影は短くなる。その短い人影が杭を打っているという状景。掛矢を振るっているのは私です。俳句は一人称の文芸です。季語は「炎天」で夏。
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文月の駄句を色紙に蚯蚓書き

2019年06月19日 12時57分07秒 | 日記

◆宿六と呼ばれて久し梅雨籠り
(よみ)やどろくとよばれてひさしつゆごもり
宿六とは「宿の碌でなし(ろくでなし)」の略で、『宿』は妻が夫のことを他人に言う際に使う俗称である(現代だと『あの人』『うちの人』など)。つまり、宿六とは仕事をしない甲斐性なしの夫など、ろくでなしな夫を妻が他人に罵る際に使う言葉である。馬鹿亭主など、こうした夫を罵る言葉は時折親しみを込めて使われることもあるが、宿六も同様に親しみを込めて使われる場合もある。季語は「梅雨籠り」で夏。

◆海匂ふ港小路の夏つばめ
(よみ)うみにほふみなとこうぢのなつつばめ
焼津漁港や用宗漁港の風景です。季語は「夏つばめ」で夏。

◆望郷の祭囃子を口ずさむ
(よみ)ぼうきょうのまつりばやしをくちずさむ
神社の祭礼の際に、山車(だし)や屋台の上などで行われる囃子。多く太鼓・笛を主にして、鉦(かね)をあしらう。祇園祭の囃子は「コンチキチン」。季語は「祭囃子」で夏。

◆泡に噎せ旅のラムネに涙ぐむ
(よみ)あはにむせたびのらむねになみだぐむ
昔、松本城で飲んだラムネが美味しくていつまでも記憶に残っている。季語は「ラムネ」で夏。

◆吉野家の牛で乗り切る土用かな
(よみ)よしのやのうしでのりきるどようかな
土用の丑の日には「う」の付く食べ物を食うのがよいとされている。そこで鰻を食うのだが近頃ではシラス鰻が不漁で鰻の価格は高騰している。「う」の付く食べ物は、梅干し・瓜・饂飩・ウズラの卵など幾つもあるから鰻が食えずともちっとも困らない。季語は「土用」で夏。春夏秋冬それぞれに土用はあるが、普通、土用といえば夏の土用 のことである。
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倍助を担いだ腰がまた痛む

2019年06月03日 07時25分55秒 | 日記
 「倍助」は「ばいすけ」ではなくて「パイスケ」である。英語の「basket」がパイスケに訛ったものという。つまり、パイスケは籠(かご)である。漢字表記は当て字であるが、これを使えば2倍の仕事ができるという意味もこめられている。

 パイスケには1番、2番、3番とあってそれぞれ大、中、小のサイズである。1番パイスケよりもさらに大きな鋸パイスケと呼ばれるものもある。因みに2番パイスケの口径は58センチ、深さは20センチである。

 パイスケは、篠竹もしくは根曲がり竹を小割にしたヒゴをそのまま編んだもので廉価である。そのパイスケの代表的な用途が石炭荷役の「てんぐどり」である。北九州の若松港を舞台にした古い映画で見た記憶があるのだが、岸壁から汽船に架け渡したタラップに並んだ仲仕たちが石炭を盛ったパイスケをバケツリレーよろしく手から手へと渡して運ぶのである。これは石炭を燃料にした蒸気船時代の話である。なお、「てんぐどり」は漢字で書くと伝供取りであり、神仏へ手渡しで供物を供える伝供(でんく)が語源であり手渡しで物を運ぶことをいうのである。

 パイスケは現在でも野菜の収穫などに利用されており、竹製品のパイスケも生産されているが、石箕などと同様にプラスチック製品におきかえられているのが実情である。

 それでは、私たち土方の使い方を説明しよう。土木工事の現場でも運搬距離が短い場合は「てんぐどり」も行った。しかし、多くの場合は天秤棒の前後に担って運んだものである。前後に二つ、つまりここに倍助の「倍」の意味がある。

 パイスケに4箇所つけられた二本の吊縄は担ぎ手の腕の長さに合わせてある。パイスケで運ぶ物は主に土や砂や砂利である。目的の場所に着くとパイスケの吊縄へ手をかけてパッと裏返しにして手際よく荷物を降ろすのである。

 序のことだから天秤棒にも触れておく。

 天秤棒は「荷い棒・にないぼう」ともいう。金魚売りや風鈴売りなどの行商人が品物を担う道具である。と、いうよりも一心太助が魚の入った桶を担いだ棒、あるいは下肥の入った肥桶を担う棒であるといったほうが解り易いだろう。

 長さ2メートル前後の堅木で作り、肩に当たる部分の断面は横の長円形、荷を吊る先端部分は縦の長円形に作ってある。先端に近いところに吊縄が外れないように突起がつけてある。

 天秤棒は荷物を担ったときに適度に撓るものがよい。安倍川あたりの工事現場では棕櫚の材を孟宗竹で挟んだ複合材の天秤棒を使用した。これは和弓の構造を考えていただくと解り易いと思う。棕櫚の天秤棒については私が親しくしていた土建業界の古老から直に聞いた話である。

◆パイスケてんこ盛りで天秤撓る   白兎


(写真は三島市役所教育部郷土資料館の資料より拝借いたしました)
 
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水無月の句を悪筆で書きました

2019年05月24日 17時00分13秒 | 日記

◆琴爪の象牙の肌に梅雨湿り
(よみ)ことづめのぞうげのはだにつゆじめり
フェイスブックの友達に琴・三味線・尺八を教えているお師匠さんがいます。素人の私が訊いても解からない話ばかりです。季語は「梅雨湿り」で夏。


◆資本論嘯く雨の夜の麦酒
(よみ)しほんろんうそぶくあめのよのびーる
『資本論』とは、カール・マルクスの著作。1867年マルクスみずからの手によって第1巻が世に問われたが,第2巻は死後の 85年に,第3巻は 94年に,盟友 F.エンゲルスによって遺稿が整理,編纂され出版された。季語は「麦酒」で夏。


◆緑陰へ睡魔手招く荒むしろ
(よみ)りょくいんへすいまてまねくあらむしろ
仕事師には「三尺寝」といって昼飯の後に短い睡眠をとる習慣がある。木陰に荒筵でも敷いてあれば申し分ない。季語は「緑陰」で夏。


◆泡盛や琉歌短く恋を叙す
(よみ)あわもりやりゅうかみじかくこひをじょす
泡盛は琉球地方の蒸留酒。鹿児島から焼酎になる。琉歌(りゅうか)は、奄美群島・沖縄諸島・宮古諸島・八重山諸島に伝承される叙情短詩形の歌謡である。和歌と同様にウタとも言われる。詠むための歌であると同時に謳うための歌でもある。奄美群島においては、主に島唄と呼称される。主に八・八・八・六形式で、 叙情的な内容のものが多い。一般に三線(さんしん)を伴奏に歌われる。季語は「泡盛」で夏。


◆羅のうしろ姿に夜の匂ひ
(よみ)うすもののうしろすがたによのにほひ
粋なお姐さんが香水を匂わせて夕方に出勤するという景です。薄物とは、たて糸とよこ糸の密度が粗く、透ける生地の総称です。上布(じょうふ)、紗(しゃ)、絽(ろ)が一般的に挙げられます。厳密には7月と8月に盛夏用の薄物(うすもの)を着るとされています。季語は「羅」で夏。

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