日々是好舌

青柳新太郎のブログです。
人生を大いに楽しむために言いたい放題、書きたい放題!!
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神君の好みし茄子甦る

2024年06月30日 19時23分52秒 | 日記

神君の好みし茄子甦る     白兎
しんくんのこのみしなすびよみがへる
茄子(なすび)は晩夏の季語。子季語に、なす、長茄子、丸茄子、青茄子、初茄子、茄子汁、巾着茄子、白茄子、千生茄子。
茄子(なす)は、ナス科ナス属の植物。また、その果実のこと。別名ナスビともよばれる。インド原産で、淡色野菜として世界中で栽培されている。和名ナスの語源については諸説あり、実の味から「中酸実」(なかすみ)の略であるとする説、夏に実がなるので「夏実」(なつみ)と読んだが、それが訛って「なすび」(奈須比)と呼ばれたとする説がある。室町時代頃に宮廷の女官が女房言葉として「おなす」と呼び、その呼称が定着した。原産地はインドの東部が有力とされ、インドでは有史以前から栽培されていたと考えられている。その後、ビルマを経由して中国へ5世紀ごろに渡ったと考えられており、多くの変異が生じていった。日本には7世紀から8世紀ごろに中国から伝わり、奈良時代から食されていたといわれ、東大寺正倉院の古文書で、「天平勝宝二年(750年)茄子進上」とあるのが日本最古の記録である。平城京の長屋王邸宅跡から出土した木簡に『進物 加須津毛瓜 加須津韓奈須比』との記述があり、高位の者への進物にナスの粕漬けが使われていたことが判明した。また、正倉院文書には「天平六年(734年)茄子十一斛、直一貫三百五十六文」をはじめとして多数の「茄子」の記述がみられる。
折戸なすは静岡市清水区三保の在来種で丸い形と鋭いトゲ、色は深く黒みがかかった茄子紺、濃厚で甘みがあることが特徴である。通常のなすより濃厚な味わいが、田楽などみそを使った料理と相性がよく、好まれている。初夢に見ると縁起がよいとされる「一富士、二鷹、三茄子」の茄子のことだといわれ、徳川家康が好んだとして知られている。明治時代以降、折戸なすの栽培は途絶えてしまっていたが、国の研究所で保存されていた種子を譲り受け、生産者とJAや関係機関の連携により平成17年に復活に成功した。
茄子紺というとおり、光沢のある濃紺の実。広葉に隠れるように実り、つやつやとした皮が雨滴や露をはじく。茄子汁や焼き茄子、茄子の鴫焼、茄子漬など食べ方もさまざまある。初物は「初茄子」という。画像出典:静岡市役所農林水産部農業政策課。

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藷爺の甘藷の花が飢ゑ救ふ

2024年06月28日 10時06分46秒 | 日記

藷爺の甘藷の花が飢ゑ救ふ    白兎
いもじいのかんしよのはながうゑすくふ
甘藷の花(さつまいものはな)は晩夏の季語。子季語に、薩摩芋の花、甘藷(かんしょ)の花。
甘藷はヒルガオ科サツマイモ属の一年生作物。原産地は中央アメリカのメキシコ中央部からグアテマラにかけてとする説が有力である。紀元前3000年以前から、メキシコ地域で栽培化されていたとみられている。その後は南米に伝わり、古代ペルーの遺跡からサツマイモの葉や花、根を描いた土器や綿布が発見されていることから、重要作物になっていったと考えられている。
日本へは、17世紀初めに中国から琉球にもたらされ、やがて薩摩へ伝わり、九州南部で栽培されたのが「薩摩の芋」として、全国へ広まり定着した。西日本の大飢饉の折に、鹿児島で餓死者を出さなかったことから、凶作の年でも収穫が見込める救荒作物として重要視されるようになり、江戸時代に飢饉を救う救荒作物として栽培が奨励された。飢饉対策に腐心していた江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の命によって、享保20年(1735年)、蘭学者の青木昆陽が薩摩から江戸に種芋を取り寄せて、小石川御薬園(現:小石川植物園)などでサツマイモを試作し、これをきっかけに東日本各地でも栽培が広がった。
この直後、明和3年(1766年)に御前崎で「藷爺さん」が栽培を始めている。「いもじいさん」とは、御前崎でサツマイモの栽培を最初に行い、この地方にサツマイモの栽培を広げた大澤権右衛門のことである。大澤権右衛門は、元禄7年(1694年)に御前崎の内浜の一角、遠江国榛原郡地頭方村二ツ家の組頭の家に生まれた。明和3年の春、海岸で1隻の難破船を見つけた。この船は、九州の薩摩藩の「豊徳丸・とよとくまる」という船で、薩摩藩の用物を運ぶ途中であったという。権右衛門親子らは村人を集め、船員24名を助けた。そして、彼らに衣類や食事を与え、手厚く介抱した。その際、薩摩藩はお礼に金20両を差し出そうとしたが、難破した船を助けるのは村の慣わしだと言って断り、その代わりに難破していた「豊徳丸」が積んでいたサツマイモを貰い受け、その栽培方法を教えてもらった。以来、御前崎にサツマイモの栽培が広がった。

大澤権右衛門は安永7年(1778年)に亡くなったが、この地方にサツマイモの栽培を広めた功績は大きく、村人達は百年忌に当たる明治11年(1878年)、大澤山海福寺に「宝篋印塔(供養塔)」を建立し、その後、明治41年(1908年)にサツマイモ伝来の経緯を記した「いもじいさんの碑」を建て心から感謝の気持ちを表した。画像出典:石川県立大学&御前崎市。
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居酒屋の女将紅さす虎が雨

2024年06月27日 10時57分27秒 | 日記

居酒屋の女将紅さす虎が雨   白兎
ゐざかやのおかみべにさすとらがあめ
虎が雨(とらがあめ)は仲夏の季語。子季語に、虎が涙、虎が涙雨、曾我の雨。
陰暦の五月二十八日に降る雨のこと。曾我兄弟の兄、十郎が新田忠常に切り殺されことを、愛人の虎御前が悲しみ、その涙が雨になったという言伝えに由来する。
建久4年5月28日(1193年6月28日)、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に曾我祐成と曾我時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を富士野にて討った事件。「一に富士、二に鷹の羽の打ち違い、三に名を成す伊賀の仇討」といった言葉にあるように赤穂浪士の討ち入りと伊賀越えの仇討ちに並ぶ、日本三大仇討ちの一つである。
事件は同28日に起きた。『吾妻鑑』28日条には「曽我十郎祐成・同五郎時致、富士野の神野の御旅館に推參致し工藤左衛門尉祐経を殺戮す」とあり、曽我兄弟は富士野の神野の御旅館におしかけて工藤祐経を討った。仇討ちの翌日である29日に頼朝は五郎(弟)の尋問を行い、有力御家人らがそれに同席し、その他多くの者も群参した。尋問を終えた頼朝は五郎の勇姿から宥免を提案するが、祐経の子である犬房丸の訴えにより同日梟首された。十郎の恋人であった虎御前も尋問を受けるが無罪。
虎は兄弟の母を曾我の里に訪ねたあと箱根に登り箱根権現社の別当の手により出家する。熊野や諸国の霊場を巡りながら兄弟の菩提を弔い、兄弟の一周忌を曾我の里で営んだ。その後、兄弟の供養のため信州の善光寺に参り、首にかけた二人の遺骨を奉納した。大磯にもどった後、高麗寺山の北側の山下に庵を結び菩薩地蔵を安置し夫の供養に明け暮れる日々を過ごした事が山下(現、平塚市)に現存する高麗寺の末寺であった荘巌寺に伝わる「荘巌寺虎御前縁起」に記されている。虎女は兄弟の供養を片時も忘れることなく、その小庵で63年と言われるその生涯を閉じる。
私の父祖の菩提寺は亀谷山結成禅寺(静岡市葵区内牧)。結成禅寺は天文廿一年相州鎌倉で創建。曾我兄弟に討たれた工藤左衛門尉祐経を葬る。境内に歌人・川田 順の歌碑がある。「狩野介の菩提寺の山蟲鳴きて首山堡に死にし兵の墓あり」。
嶋田宿の文人・桑原藤泰著の『安倍紀行』に次のように記載されているそうだ。
内牧の里、亀谷山結成寺、済家法幢地なり。朱符寺田五石。府の臨濟寺の末なり。むかしは鎌倉派なり。本尊地蔵、運慶作。開山、南寂豊公元始と云う。慶長元年遷化の僧なり。当寺鎮守八幡宮、山門の前にあり。神体唐金円鏡の如し。左右に鐶あり。正中に阿弥陀の像を鋳揚げたり。裏に正応五年二月十九日と記し、片仮名にて書彫り付けあれど、文字詳らかに読みがたし。こゝに寺僧の伝に云う。当寺はむかし開基、天徳寺法輪大禅定門にて、工藤左衛門尉祐経なり。既に寺後の山に祐経が五輪の塔ありと云う。閻王堂、鐘楼、山門あり。また、一徳寺、観法院とて、当寺の末院あり。画像出典:刀剣ワールド。

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石楠花を観に天城山縦走す

2024年05月30日 09時18分29秒 | 日記


石楠花を観に天城山縦走す    白兎
しゃくなげみにあまぎさんじゅうそうす
石楠花(しゃくなげ)は初夏の季語。子季語に、石南花、しゃくなぎ、せきなん。
ツツジ科の常緑低木。原産地は北半球。茎の先端に優雅で柔らかな花をつける。ヒマラヤから中国南部の高山地帯で多種が分布し、たくましい生命力にあふれている。
東石楠花(アズマシャクナゲ)は、ツツジ科ツツジ属シャクナゲ亜属の常緑低木。深山に生える。別名シャクナゲ。和名は、日本の関東地方の山地に多く自生し、東国の意味のアズマの名がある。日本の本州のうち、東北地方の岩手県・宮城県・山形県以南、関東地方、中部地方の長野県・静岡県までの範囲に分布し、亜高山帯の林内、稜線上などに自生する。花期は5~6月で、枝先に総状花序を伸ばし、淡紅色の花を5~10個つける。画像出典:ウイキペディア。
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千団子そなへ育児の神祀る

2024年05月18日 10時53分43秒 | 日記


千団子そなへ育児の神祀る   白兎
せんだんごそなへいくじのかみまつる
千団子(せんだんご)。は初夏の季語。子季語に、千団子祭、千団子詣、栴檀講、千団講、鬼子母神参。
五月十六日から十八日まで。大津市の園城寺、通称三井寺にある護法善神堂に祀られる鬼子母神の縁日。鬼子母神は千人の子があったが、人の子をとって食ったため仏に懲らしめを受け、以後改心して子供の守護者となった。安産、子育てを祈り千個の団子を供える。

社殿前の放生池では亀の甲羅に子供の名前を書いて放流する「放生会」も行われ、六百年を超えて続く大津を代表する祭礼となっている。画像出典:三井寺文化遺産ミュージアム&成安造形大学 地域実践領域。
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石楠花を観に天城山縦走す

2024年05月18日 07時45分50秒 | 日記


石楠花を観に天城山縦走す    白兎

しゃくなげみにあまぎさんじゅうそうす

石楠花(しゃくなげ)は初夏の季語。子季語に、石南花、しゃくなぎ、せきなん。
ツツジ科の常緑低木。原産地は北半球。茎の先端に優雅で柔らかな花をつける。ヒマラヤから中国南部の高山地帯で多種が分布し、たくましい生命力にあふれている。
東石楠花(アズマシャクナゲ)は、ツツジ科ツツジ属シャクナゲ亜属の常緑低木。深山に生える。別名シャクナゲ。和名は、日本の関東地方の山地に多く自生し、東国の意味のアズマの名がある。日本の本州のうち、東北地方の岩手県・宮城県・山形県以南、関東地方、中部地方の長野県・静岡県までの範囲に分布し、亜高山帯の林内、稜線上などに自生する。花期は5~6月で、枝先に総状花序を伸ばし、淡紅色の花を5~10個つける。画像出典:ウイキペディア。
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山葵田に青笹山の水奔る 

2024年04月22日 13時22分34秒 | 日記


山葵田に青笹山の水奔る    白兎
わさびだにあをざさやまのみずはしる

山葵(わさび)は晩春の季語。子季語に、土山葵、葉山葵、畑山葵、白山葵、山山葵、青茎山葵、赤茎山葵、山葵田、山葵沢。
アブラナ科の多年草。葉はハート形で、春から夏にかけて白い四弁の小さな花をつける。水の流れるところで栽培されるが、人里近い山地にも自生する。地下茎をすりおろし、香辛料として刺身や蕎麦などに添える。葉や茎は、わさび漬の材料になる。
青笹山(山頂標高1,550m)は北に十枚山(標高1,726mの上十枚山と、1,732mの下十枚山からなる双耳峰。)、南に真富士山(静岡市葵区平野と清水区河内の境にある山。第一真富士山と第二真富士山があり、前者は1,343m、後者は1,402m。第一を主峰とするが標高は第二の方が高い。)と、堂々とした山容の二山に挟まれ、中腹にはワサビ発祥地として知られている有東木集落がある。画像出典:静岡市経済局農林水産部中山間地振興課。
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茶畑に八十八夜きつね石

2024年03月22日 11時39分58秒 | 日記

静岡茶の祖・聖一国師(1202〜1280年)は、静岡市葵区足久保と釜石峠一つへだてた大川地区栃沢の生まれ。聖一国師という名は、死後、花園天皇から贈られた称号で、生前は円爾(えんに)と称した。
幼いころから利発であった聖一国師は、5歳で久能寺に入門、その後、各地で修行を積み、嘉禎元年(1235)に宋へ渡った。径山(きんざん)の無凖師範(ぶじゅんしばん)のもとで学び、仁治2年(1241)に帰国するが、その 際、経典をはじめ、様々な技術を持ち帰った。九州に博多織や饂飩を伝えたのも聖一国師の功績といわれる。帰国後、多くの貴族の尊敬を受け、九州の崇福寺や承天寺、京都の東福寺の開山として迎えられた。
寛元2年(1244)、聖一国師は入宋前に学んだ上野国(群馬県)の長楽寺に栄朝禅師を訪ね、その帰り、故郷栃沢の母のもとを訪れる。このとき、宋から持ち帰った茶の種を穴窪(足久保)に播いたことが『東福寺誌』に記されている。茶の栽培法や利用法も学んできた聖一国師は、この地が茶の栽培に適していることを見抜いていたのであろう。このことから足久保が、静岡茶の発祥地とされている。
足久保茶にとって重要な史跡に、「狐石」がある。大きな石の表面に、天明8年(1788)に駿府の茶商・山形屋庄八(初代竹茗)によって刻まれたと伝わる碑文があり、松尾芭蕉が元禄7年(1694)5月に読んだ「駿河路や はなたち花も 茶のにほひ」の句とともに自らの製茶技術復活の業績が記されている。
御用茶の献上停止から時を経て、足久保ではかつての青茶(高級煎茶)の製法が失われていた。それを復活させようと、竹茗は鮒沢(舟沢)の辺りに小屋を構えて茶を栽培し、古老から話を聞くなどして、十年に及ぶ苦心の末、復活に成功した。こうして再び足久保で高級煎茶の生産がはじまったことを伝えている。
この狐石は、地元茶農家の人たちによって大切に管理されている。その傍らには聖一国師の碑が建ち、毎年供養祭が行われる。
「狐石」の名の由来は、ここに狐が棲んでいたことから。また、容易に変化することからお茶の葉を「狐っ葉」と呼ぶこととも関係があるのだろう。画像出典:秋山白兎俳句館。
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大瀬崎の神池に棲む鯰かな

2024年02月24日 11時40分35秒 | 日記

引手力命神社(ひきたぢからのみことじんじゃ)は、静岡県沼津市西浦江梨の大瀬崎(おせざき)にある神社。
創建時期は不明であるが、一説には白鳳13年(684年)に発生した大地震に伴って海底が突然三百丈余も隆起して「琵琶島(びわじま)」と呼ばれる島が出現したため、同時期の地震で多くの土地が海没した土佐国から神が土地を引いてきたのだ、と考えた人々がここに引手力命を祀ったのが最初、とも言われる。「琵琶島」はやがて砂洲の形成により陸繋島となり大瀬崎となった。

大瀬明神の神池は、静岡県沼津市西浦江梨、伊豆半島の北西端から北へ突き出した大瀬崎の先端にある、最長部の直径が凡そ100メートルほどの池である。
伊豆七不思議の一つ。国の天然記念物である「ビャクシンの樹林」に囲まれてはいるものの、海から最も近いところでは距離が20メートルほど、標高も1メートルほどしかなく、海が荒れた日には海水が吹き込むにもかかわらず淡水池であり、鯉や鮒、鯰などの淡水魚が多数生息している。
尚、神池は引手力命神社の境内地であるため、拝観時間は日の出から日没までとされ、拝観料が必要である。また魚や動植物の採取は文化財保護法などにより固く禁じられている。

画像の石は境内地に無造作に置かれていたもので文字か記号か定かではないが書かれている。神社に置かれた石から「力石」ではないかとも推察される。

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丁子屋の梅に紅白遅速なし

2024年02月06日 12時18分36秒 | 日記





丁子屋の梅に紅白遅速なし    白兎

ちやうじやのうめにこうはくちそくなし

梅(うめ)は初春の季語。子季語に、好文木、花の兄、春告草、匂草、風待草、初名草、野梅、梅が香、梅暦、梅の宿、梅の里。梅は早春の寒気の残る中、百花にさきがけて白色五弁の花を開く。「花の兄」「春告草」とも呼ばれ、その気品ある清楚な姿は、古くから桜とともに日本人に愛され、多くの詩歌に詠まれてきた。香気では桜に勝る。画像出典:Japaaan&静岡新聞。
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