日々是好舌

青柳新太郎のブログです。
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都田に石松最期の地蔵堂

2021年06月16日 15時50分19秒 | 日記
無事に金毘羅代参を終え帰途に就いた石松は久しぶりに遠州浜松小松村の七五郎を尋ね一泊の宿を請う。七五郎は石松の父が死ぬときに「七さん、石を頼んだよ」といったほどのしっかり者。七五郎は次郎長の身内ではないが郭縁の間柄で陰に日向に次郎長を支えてきた人物である。

遠州一帯で人望のないくせに狡猾な遺り口で縄張りを広げていた都鳥一家の吉五郎は石松が代参帰りに身に付けていた香典の預かり金三十両に目を附け騙し取る事を画策、石松は、その口車に乗せられて金を貸して仕舞う。約束の日に指定場所に出向くが音沙汰無く却って都鳥の差し金で若い者から闇討ちに合う。

石松の出身は当時の三州半原村にあり、代々庄屋も務めた家柄だったが、父親の代に自宅から火を出し、自宅は全焼、石松の母親(名:かな)と飼い馬は焼死した。父親は幼い次男の石松を連れて炭焼きの仕事をするために遠州森町へ来た。そして天宮神社の祭礼の日に迷子となり、地元の侠客・森の五郎に引き取られて少年時代を森町で過ごす。その石松が起こした喧嘩の仲裁に清水次郎長が割って入るが、仲裁人の次郎長にまで食って掛かった。次郎長は手に負えない石松を引き取り自分の子分とした。

小松村のはずれの閻魔堂の前で都鳥一家など十人に欺し討ちにあった森の石松は血だらけになりながら兄弟分の七五郎の家にやってくる。七五郎は石松を押し入れに隠すと、女房のお民に「石松の代わりに都鳥一家に斬られて死ぬので縁を切る」と語る。しかしお民は「惚れて女房になったんだ。一緒に死のう」と笑って答える。ほどなく殺気立った都鳥たちがやってくるが、七五郎もお民も落ち着き払ってあしらい、都鳥たちの気勢をそぐ。

お民の動じない姿を見た都鳥たちはあきらめて帰って行く。石松が「浜松で医者にかかる」と言い出したので、七五郎は付き添っていこうとする。しかし石松はそれを断り、浜松には行かずに閻魔堂に引き返したところ、「石松は卑怯者だ」と都鳥たちが話しているのを耳にし、我慢がならずに姿を現して斬殺されてしまう。

森の石松を殺した都鳥たちは三日後、天竜川端に住む本座村為五郎を訪ねた。為五郎は石松の死をすでに知っていた。そして都鳥一家の仕業であることを伝えに小松村七五郎が次郎長のもとに向かったと語った。と、その時、次郎長一行がやってきた。為五郎は都鳥たちを物置に隠す。こうして都鳥に味方するのかと思われたが、石松の死を次郎長に語り始める。

以上は浪曲のあらすじである。写真は瀧本美智子さん撮影。

小松村おその
1823-1905 幕末-明治時代の女性。
文政6年生まれ。遠江(とおとうみ)(静岡県)横須賀(よこすか)の博徒小松村七五郎の妻。清水次郎長(じろちょう)の子分、森の石松をかくまったことで知られる。浪曲での名は「お民」。明治38年死去。83歳。

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香勝寺100万本の桔梗咲く

2021年06月16日 15時46分13秒 | 日記
 静岡県周智郡森町草ケ谷968。遠州三十三観音霊場 第三十二番札所 曹洞宗鹿苑山香勝寺は、昭和61年7月、住職が白龍頭観音から、《境内に2万株以上の桔梗を植えると、参拝の方々に心身に清らかな気が充満し、安らぎの世界に至る事ができる》とのお告げを受けた事から植栽に励み、今では遠州の小京都森町の香勝寺は日本三大桔梗寺と言われる様になった。現在は、15種類4万5千株、100万本以上の桔梗が咲き、初夏6月中旬より園内は青紫色一色に染まる。
 桔梗の他にも
【早春】ロウ梅・梅花・椿・スイセン・四季桜
【春】レンギョ・桜・四季桜・枝垂れ桜
【初夏】ききょう・あじさい
【夏】ききょう・オミナエシ・ナデシコ・百日紅
【秋】萩・ススキ・藤袴・葛
【冬】四季桜
などが境内に咲く。

 香勝寺は天文14年(1545)2月18日、今から476年前に一ノ宮領主、武藤刑部少輔氏定公が寺領を寄付。法名は香勝寺殿興巌道清大居士、一ノ宮宮司で一宮領主である。天正9年3月22日高天神城落城の日に戦死。
 
 崇信寺八世の弟子宣翁全忠大和尚を歓請し開山。札所本尊白龍頭観世音菩薩は、大正時代の中頃、草ヶ谷の観音坂をある行者が通りかかった時に、「この土中には観音さまが埋まっておられるので、すみやかに掘り出して供養なされるがよい」と申された。

 武藤家の初祖は武藤五郎と称して坂東の武藤の分派にて、長兄は武藤太郎頼忠(武蔵国)、次兄は武藤小次郎頼資にして頼朝の臣にして九州の少貮氏となる、元寇の乱に奮戦せし人なり、三男の五郎は頼朝の臣、安田義定の五家老の一人にして、義定が治承4年遠江守に任ぜられし時此処一宮領の代官(目代)として当地に住み、安田遠江守義定息の些細な罪により鎌倉に呼びつけられて建久5年8月19日に梟首せられた。

 慶長6年8月24日付けにて寺領十六石あるを認めて御朱印申請可出当役所に預かり置き申し者也仍如件伊奈備前守忠次(花押) 黒印書あり。

 慶長9年8月8日井出伝衛門(印) 御朱印高十六石地所再確認書あり。当時山主は三世秀虎和尚也。
境内地底38,000余坪(字菖蒲ヶ谷が全部なり)総建坪630余坪(絵図面有)等々の記録がある。詳細は香勝寺ホームページ参照。写真は瀧本美智子さん撮影。



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