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日々是好舌

青柳新太郎のブログです。
人生を大いに楽しむために言いたい放題、書きたい放題!!
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岡部宿 鉄砲寿司が お薦めだ

2013年07月31日 12時15分57秒 | グルメ
 久しぶりのグルメ記事である。今回は、ひちふく岡部店の「いかの鉄砲寿司」だ。有名な駅弁に「いか飯」というのがあるが、あちらは詰めてあるのがもち米で、こちらは酢飯であるからちょっとばっかり趣が違う。

 東海道岡部宿(おかべじゅく)は、東海道五十三次の21番目の宿場である。 現在は合併により静岡県藤枝市岡部町となっている。江戸時代の岡部名物といえば淡雪豆腐(あわゆきとうふ)ということになる。淡雪豆腐は柔らかく仕上げた豆腐で茶飯や香の物といっしょに出されていたらしい。

 因みに次の宿場藤枝宿の名物は瀬戸の染め飯と辛い漬物「ほととぎす漬」であったが、現在では焼津市の焼酎屋本店が「ほととぎす漬」の伝統を守っている。辛いものがお好みの方には是非お薦めしたい一品である。

「ほととぎす漬」は酒かすに漬けたウリにからしを塗り、塩漬けしたシソの葉で巻いた珍味。「涙が出るほど辛い」と気に入った武士が名付けたとされ、藤枝宿の名物として江戸時代から昭和初期まで東海道の旅人に人気があった。

 以下は蛇足であるが、東海道の宿場ごとに名物があった。由比宿はたまご餅、江尻宿(清水)では追分羊羹、古庄のうさぎ餅、府中(静岡)では安倍川餅、丸子宿ではとろろ汁、宇津の谷では十団子、島田宿では小まんじゅう、菊川では菜飯田楽、小夜の中山では子育て飴、掛川宿では振袖餅といった具合である。

 私は数年前に短期間であったがここ岡部町に所在する建設会社に勤務したことがある。私の自宅からは国道1号線バイパスを利用すれば30分程度で通勤できる隣町だ。

 明治時代に東海道本線が敷設されたときに鉄道が海岸線に沿って静岡、用宗、焼津、藤枝・・・・と、敷設されたため岡部宿は急速に宿場町としての賑わいを失った。

 一部には住民が蒸気機関車の煙や火の粉を心配して線路の建設を拒んだ所謂『鉄道忌避伝説』という俗説もあるが、当時の新聞記事や県の上申書には東海道の各宿で積極的な誘致運動が展開されていたという記録こそあれ、反対運動があったという記録はない。

 『鉄道忌避伝説』は、東海道の宿場町の大半が鉄道の恩恵を蒙ったのに岡部宿は例外的に外れたことに対する無理なこじつけなのだろう。

 現在、これという名所旧跡があるわけではないが、宿場時代の大旅籠「柏屋」というのが残っていて見学できる。町内の兵隊寺(常昌院)というお寺の兵隊の人形は一見の価値がある。

 遼陽城頭夜はたけて 有明月の影すごく 霧立ちこむる高梁の 中なる塹壕声絶えて・・・・「敵の陣地の中堅ぞ先ず首山堡を乗っとれと三十日の夜深く前進命令たちまちに下る三十四連隊橘大隊一線に」と、軍歌「橘中佐」にも歌われた、軍神、橘周太中佐率いる静岡歩兵第三十四聯隊は、日露戦争初期最大の激戦首山堡(しゅざんぽう)の闘いで勝利するものの、23,615名もの死者を出し、橘中佐は戦死する。
 
 この勝利を最も喜んだのは中国の人々で、家の軒に日章旗を掲げ日本軍を歓迎したようだ。日本が勝ったおかげで朝鮮も中国もロシアの植民地にならなくて済んだのである。もっといえば負けていたら日本も植民地になっていたかもしれないのだ。

 大東亜戦争後、日本軍を悪とする戦勝国米国の教育により日本軍がなんだか中国にひどいことをしてきたとされているが、一面では日本軍が西欧列強から中国、朝鮮を守っていたのだ。

 さて、この静岡歩兵第三十四聯隊に入隊し戦死した地元の兵隊さんの人形を作って祀っているのが兵隊寺で一体一体本人を参考に作られている。

 
 宿場の中ほどにサッカー選手のゴン中山の生家があって父親の儀助氏は町会議員なども勤めたことがあり、テレビ出演などちょっとしたタレント活動もしているようだ。

 そのほか昔の東海道の松並木が残っていたり、「小野小町姿見の橋」などというのもある。この橋は、絶世の美女として名高い小野小町が夕日に映える西山の景色に見とれていたが、ふと下を見下ろすと長旅で疲れ果てた自分の顔が目に入った。その老いの身の上を嘆いたとされる橋である。この橋は宿場の中にあるが橋長僅か1メートルほどの短い橋であるから注意していないと見過ごしてしまうだろう。

 さて、写真の「いかの鉄砲寿司」であるが、旧・岡部町役場の南側、元の国道1号線沿いにある「ひちふく」というおにぎり屋の商品である。壁にゴン父中山儀助氏の色紙なども掲げてあるこの店にはクチナシの染飯のおにぎりなど変わった商品もあって味もなかなか結構である。

 当地ご通行のみぎりには宿場酒「初亀」と共にこの「いかの鉄砲寿司」をお薦めしたい。

 なお、岡部町の朝比奈地区は有名な朝比奈玉露の産地であるが、上の写真の湯飲みにあるのは安い煎茶の出がらしである。

 大事なことを忘れるところだった。岡部町といえば俳人・村越化石氏の生まれ故郷である。私は村越氏の生家のすぐ近くで工事をしたことがある。

 ◆ 望郷の目覚む八十八夜かな  化石

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肩書きはハートストーンズ倶楽部会員だ

2013年07月22日 13時38分16秒 | 日記
 ハートストーンズ倶楽部という会がある。

 名称のとおりハート型の石を集めて愛玩するというきわめて健康的な目的で作られた会である。

 解りやすい話として「ハートストーンズ倶楽部」と検索すると設立の趣旨などを書いたページにヒットするから是非読んでいただきたい。


 ハートストーンズ倶楽部の第1号会員は何を隠そうこの私である。私の妻も愛犬もこの倶楽部の会員であるが愛犬秋山・ジョン・万次郎は既に星になってしまった。

 この会の創設者で会長は、画家でイラストレーターで俳人のオジャラ・リカさんだ。オジャラさんは東京北千住にあるオジャラ画廊のオーナーでもある。副会長はストーンセラピストの小石川桂子さんである。

因みに石を使った療法は、古代の人々に広く根付いていた。中世のヨーロッパでは宝石が薬として使われ、中国では石を鍼治療や漢方薬に使い、日本でも温石(おんじゃく)を痛みの“癒し”や灸の代用として利用してきた。

 ハートストーンズ倶楽部の会則は「ハート形の石を探す」と、いうだけの極めて単純明快なもので勿論、会費などは一切必要ない。

 会員は誰でもハートストーンズ倶楽部に入会したと自ら宣言することで会員になれるらしい。しかし、ハートストーンズ倶楽部には会長も副会長もいることだから、オジャラ・リカ会長のところへメールを一本打つことくらいはしておいたほうが会員らしい気分を味わえるだろう。

 オジャラ・リカさんのメールアドレスは「おじゃら画廊」と検索するとホームページが出てくるから、そこからご自分で調べていただきたい。

 会員登録が済んだら、後は川原や海岸など小石がたくさんあるところでひたすらハート形の石を探すことに専念するだけである。

 写真中央のハートストーンは静岡県袋井市にある真言宗別格本山・法多山(はったさん)尊永寺の石垣に積まれている玉石の一つで、先日、名物の厄除け団子を目的にお参りしたときに偶然見つけたものである。山門をくぐって玉砂利を敷いた参道を歩いてゆくと、左側に続く石積みの中ほどにある。

 この寺の石積みは玉石を積んであるのが特徴で、この種の石積みに玉石を用いるのは珍しいと思う。丸い石を積んでしかも寺勾配という微妙な反りをつけてあるのだからこれを積んだ石工の技量はたいしたもんである。
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行政が 部落差別を 助長する

2013年07月18日 15時34分35秒 | 日記
 ハローワーク(公共職業安定所)から電話があって、貴社の求人に応募希望者がきているからという。

 年齢は30歳で土木作業員の経験はある人だからどうだと畳み掛けてくる。職安も失業率を下げるのに必死である。

 それでは面接をしますから、職安さんの紹介状と履歴書を持参して来社させてください。そのときに家族の状況なども判るようにしてきて欲しい。と、言うと職安の人がそれは困りますという。

 何故ですかと訊ねると、家族の状況など、本人とは関係のないことを理由に採否を決めるのは規則に違反するからだという。

 詳しく訊ねると、本籍地なども訊いてはいけないという。出生地が判ると人権問題に発展すると困るからだという理由である。

 しかし、それでは採用する側は、どこの何方なのか、どういう人物なのかもろくに判らないままで採用せよということなのでしょうかと訊き返すと、兎に角、プライバシーの問題で採否を決めるのはよくないのでという一点張りだった。

 人権問題というのは所謂、被差別の問題だと思われるが、本籍地はいとも簡単に変更できるのだから、自分の本籍地に何らかの差障りがあるのであれば、さっさと変更したらよいのではないかと私は思う。

 私の場合は、人権問題には関係ないが、実家の長兄とは不仲であるし、自分名義の土地家屋に居住しているから、現住所を本籍地に決めた。この手続きは区役所の戸籍課へ申請するだけだからいとも簡単である。

 私の知り合いで静岡市葵区追手町1の1つまり静岡中央警察署の所在地を本籍地にしている者だっていた。このとぼけた男は昨年、古希を目前に亡くなったが妻と子供3人がいたのだから、妻子の本籍地は元のままになっているのではないかと思う。

 次に家族関係については、もし事故にでも遭って身寄りに連絡しようにも家族のことが分からないのでは連絡のしようがないから、困るというと、それは採用決定後に本人から訊いて欲しいという。話がちっとも噛み合わないのである。

 英国女性リンゼイ・アン・ホーカーさんを殺害して逃亡した市橋受刑者は大阪の建設会社の宿舎に潜伏していた。彼の場合は指名手配中に顔を整形していたりもしたが、我社とて何処の何者かも判らない者を闇雲には採用できないのである。因みに市橋受刑者を採用していた会社は事件後に労務管理に問題ありとして信用を失い不利益をこうむったらしい。

 雇用者側の立場としては、家族手当の支給や扶養控除など税務的な手続きもあれば、社会保険や健康保険の問題だってある。だから、家族の状況は採用する側からは事前に知りたい事柄である。

 職安の担当者は結局のところ原則論に終始してその辺の事情については最後まで理解してくれなかった。

 このときは、応募希望者という人物も約束の時間午後1時30分になっても現れず、結果的には狐に抓まれたような話だったのだが、日本の社会に今も根強く残る被差別問題は、見方によって一面では行政当局が助長しているのではないかという疑問さえも生じた。

 企業の採用担当者の心得としては、相手が嫌がるような個人情報は無理に訊き出そうとしないで、例えば、各種の免許類で本籍地を判断したり、面接の会話の中でそれとなく聴いたりして判断すればよいのである。

 「普通」の人であれば自分の生まれ故郷を隠す必要などあろうはずもなく、愛する家族もまた隠す必要もない事柄である。

 そうしたことに触れられるのが都合の悪い人物は最初から胡散臭い人物と見做して、採用しないのが賢明な判断というものであろう。これは自らの企業を防衛する手段であって差別でもなんでもないことである。
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啀み合う 向う三軒 両隣

2013年07月17日 12時18分48秒 | 日記
 日本には昔から「向う三軒両隣」といって、近所付き合いは当然のこととしてお互いが何かと助け合ってきた良き風習があった。そこには、信頼と安心によって結ばれたコミュニティー(共同体)が存在していたのである。

 到来物があればお裾分けをし、味噌が無くなったといっては隣へ駆け込み分けてもらって急場をしのぐといったことがしごく当然のこととして日常的に行われていたのである。

 そうした観点から最近の我がご近所をつぶさに観察すると、その荒廃ぶりは耳を塞ぎ目を覆いたくなるのが実情である。

 最も新しいところでは向こう三軒の内の二軒が揉めた。

 我が家から道路を挟んだ正面の家の当主は教育関係の元地方公務員である。彼は多くの教員がそうであるように某革新政党の党員であり赤旗新聞の拡大に余念がない。しかし、思想信条はともかくとして性格は穏やかで私とも親しい関係にある。

 彼は今から25年前に家を新築したとき庭へ記念の桜を植えた。毛虫がついたといっては消毒をして手入れしてきた結果、最近ではかなりの大きさに育って年々たくさんの花を咲かせるようになった。実はこの桜の花びらが揉め事の原因である。

 彼の隣家は某学会員の家族である。風が吹くと桜の花びらが某学会員の車庫へ降り注ぐのである。花びらが車へ付くからといったのか、掃除が面倒だといったのかは定かではないが某学会員の女房がすごい剣幕で向かいの家へ怒鳴り込んできたそうである。普通の感覚ではちょっと考えられない事態に近隣一同困惑を隠せない。

 某学会員の女房はかなりの変わり者である。彼女の飼っているダックスフンドが我が家の車庫へきて糞をしたとき、私が抗議したことがあるのだが、ぬけぬけと白を切って押し通そうとした。

 また、犬の糞を毎日のように道路の側溝へ棄てるのを注意したこともあるが、このときもなんら罪悪感を持たず反抗的な態度だったので河川法違反で告発するとまで言ったことがある。

 さて、私の家の東隣は、これまた公務員家族である。亭主が県の元職員で奥さんは小学校の元教員、娘は郵便局につとめている。

 この亭主が県の東部の事務所へ単身赴任していたときに公務員宿舎で脳梗塞を発症して倒れたのだが、発見が遅れたために後遺症がひどくて自宅療養を余儀なくされている。
 
 奥さんは定年まで2,3年あったようだが亭主を看護するために早期退職して専念していた。ところが、この亭主が鬱憤を奥さんに向けて発散するのである。大声で怒鳴りつける。物を投げつける。とうとう奥さんまでストレスが嵩じてくも膜下出血で半身不随の状態になって入院生活を送る羽目になってしまった。

 亭主は自宅でホームヘルパーの世話になりながら生活しているのだが、我侭な性格らしくヘルパーの派遣団体が次々と変わっている。

 揉め事はこのことではない。私の自宅のはす向かい、つまり某革新政党党員の東隣の家は病院の薬剤師の亭主とヒステリックな奥さんに娘が二人という家族構成であるが、ビーグル犬を一匹飼っている。

 このビーグル犬が飼い主の奥さんに似て実によく吼えるのである。水道の検針員、新聞配達員、電気の検針員、保険の外交員、単なる通行人・・・・あらゆる来訪者が通るたびに10分以上も激しく吼え続けるのである。

 番犬としてはきわめて優秀といわざるを得ないが、クラシック音楽を唯一の趣味とする我が隣家の亭主からしたら最悪の雑音になっているらしい。

 隣家の亭主は吼えない首輪を嵌めろとか、家の中で飼えとか、何度も抗議したようだが、ヒステリックな向かいの奥さんも動物愛護の精神に反するとかいって聞き入れてくれないようだ。

 そこで隣の亭主がとった次なる行動は奇抜である。彼の家の前の駐車場に置いてある薬剤師の車の屋根に味噌汁をかけたり、食べ物の残り滓を置いたりするのである。車の屋根に撒かれた味噌汁の実を鴉が来て突いていたりする状景を実は私も何度か目撃している。

 この件について夜回りの折に薬剤師から相談を受けたのだが、私からすると喧嘩両成敗が妥当なところで、警察へでも相談してみたらどうでしょうかと、いうのが精一杯のところであった。

まだまだ話は尽きないのであるが今回はこの辺で端折っておく。
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容疑者はいつでも土木労働者。

2013年07月16日 13時24分40秒 | 日記
 昔は背広を着ていない犯罪者は多くの場合、建設作業員と思われていたようだ。

 新聞やニュースなどでも「一見労務者風の男が逃走し~」とか「容疑者は一見労務者風の~」などという表現が頻繁に使われていた。「労務者」というのは建設作業員のことで一種の差別的表現に近い状態だった。

 これでは建設業界としてはたまったもんじゃない、というわけで、1971年頃だったか、業界で「用語改善案」を作成し、官公庁、新聞放送各社などへ要請をおこなった。だから現在では「飯場」とか「土方」とかなどの用語は公的にはまず用いられることはない。

 その所為だかなんだか解らないが美輪明宏氏の「ヨイトマケの唄」という歌もとばっちりを受けて干されていたようである。私の十八番である一節太郎氏の名調子「浪曲子守唄」などもあまり聴く機会がなくなってしまった。この歌の歌詞には土方稼業や飯場鴉などの文句がある。

近頃の放送用語などでは次のように言い換えているようである。

►「犬殺し、犬取り」=野犬捕獲員、狂犬病予防技術員
►「隠亡」=火葬場職員、火葬係
►「おわい屋、掃除夫(婦)」=清掃作業員
►「バタ屋」=廃品回収業
►「土方、土工、人夫」=建設・建築作業員、土木労働者
►「労務者」=労働者(「一見労務者風」=差別を助長)
►「小使い、雑役夫」=校務主事、校務員(用務員という言い換えは適切ではない。英語ではjanitor)
►「文盲」=非識字者(文盲は目の見えない人だけでなく、教育を受ける機会に恵まれなかった人への差別も含んでいる。)

 さて、悪い事をする奴には・・・政治家・官僚・弁護士・銀行員・教師・医師・最近ではエロ牧師だっているというのに、どうして何時も土木労働者風の男・・・なんでしょうか?。

 永年、土木建築の世界に身を置いております私奴にとりましては甚だ心外であります。

 土木の仕事といえば、例えば、あの仁徳天皇の古墳だって、俺たちの先祖が作ったんです。

 盛土を搗き固め、巨石を組み上げて石棺を安置する玄室を造り、玄室までの羨道(せんどう)を造り、更に盛土を搗き固め、前方後円を形作り、表面は石でびっしりと葺きあげる。土木工事は社会の基盤を作る大切な仕事だと誇りを持っているのですが・・・。

 江戸時代の刑罰に・・・鋸挽・磔・獄門・火罪・遠島・追放・・・・などに続いて・・・寄場送り・・・と云うのがあって・・・あの鬼平こと火付盗賊改め方長官・長谷川平蔵の発案とかで・・・今で云う強制労働とでもいいましょうか・・・どうもその寄場人足と正業である土方人足を世間一般の皆さんのみならず新聞記者なども混同している節があります。実に遺憾であります。

 序でに、言うと刑罰のひとつに「入れ墨」というのがあって腕などに前科を表わす入れ墨をしたのだが、これと彫り物とを混同している節もある。私の周辺にはとび職人などで彫り物をしている者も多いのでこの混同も気の毒である。 

 私が過去40数年間付き合ってきた土木労働者には悪い奴は一人もおりませんでした。
最後はなんだか愚痴っぽくなってしまいましたね。
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コーヒーを 飲んで防ごう  熱中症

2013年07月11日 11時39分14秒 | 日記
 午後の紅茶というのがある。私の場合は紅茶よりもコーヒーの方が好きだから午後の珈琲である。

 コーヒー通ぶった人たちはよくモカだキリマンだブルマンだと産地や銘柄に能書きを垂れるが私はそんなことには一向に頓着しない。何処のコーヒー豆だってよい。と、いうよりも幾つかの豆の長所を生かし短所を補うために配合したブレンド・コーヒーがよい。ただし煎り加減は中くらい所謂ミディアム・ローストであんまり濃く淹れないほうが好みだ。出来ることなら挽く前に一応は豆を点検して不良な豆は取り除いてもらいたいもんだね。

 モカというのは地名でイエメンの首都サヌアの外港であり、アラビア半島の紅海に面する往年のコーヒー輸出港であったが砂州のために港としての機能を失い代わってホディダやアデンが利用されてきた。 かつてモカの港からは、イエメン産のコーヒー豆の他、対岸のエチオピア産のものも一緒に輸出されたため、両国産のものを合わせて「モカ」と呼んでいる。

 だからモカ・コーヒーはモカ港閉鎖後はホディダ港から積み出されたイエメン産或いはエチオピア産アラビカ種のコーヒーということになる。

 サヌアと書いていて思い出したがかつて私が所属していた俳句結社の会員でサヌア在住の方がいた。サヌアからしばしばメールをいただいたものである。彼はアラビア語を学ぶためにサヌアに滞在していたのだが、現地の政情不安定なために今は帰国している。その方の話では、イエメンはアラビア半島の南端に位置するが緑豊かなところだと聞いたことがある。

 キリマンジャロというのはアフリカ大陸第一の高山、5900メートルの麗峰の名であるが、コーヒーの世界では、その中腹で生産されるタンザニア・コーヒーの代名詞である。

 ブルー・マウンテンというのはカリブ海に浮かぶ島国ジャマイカの東部のブルーマウンテン山系の800~1500メートルの高地で産するコーヒーであるが、これとて№1、№2、№3、ピーベリーの4等級がある。ピーベリーというのは丸豆とも呼ばれ、果実中の二個の胚珠の一つが発育不全の結果、一果実中に一粒の種子が入った形になる。これは全生産量の10パーセントくらいあるようだ。

 ハイ・マウンテンというのは主にジャマイカ中部から西北部の500~1000メートルの地域に産するものでブルー・マウンテンの約2倍の生産量がある。これにも№1、№2、ピーベリーの3等級がある。

 ブルー・マウンテンとハイ・マウンテンを除くジャマイカ産コーヒーをプライム・ウォッシュドと呼ぶ。だから訳も解らずにコーヒーはブルー・マウンテンだなどと嘯いている輩の気が知れないのである。

 どうせ能書きを垂れるんならモンキー・コーヒーでも飲んだらどうだろうか。野生の猿が熟したコーヒーの果実を食べると、果肉は消化されるが種子は未消化のまま体外へ排泄される。このように猿の消化管を通って出たコーヒーをモンキー・コーヒーといって現地では珍重されるそうである。猿のウンコからコーヒーですよ。これは珍しいでしょう。

 動物の排泄物から取り出したコーヒー豆というと、ベトナムには狸コーヒーというのがあって、こちらは狸の糞から選り分けたものだが、これも美味しいコーヒーのようである。何しろ野生の狸が完熟した果実を選んで食べるのであるから目に狂いはない。

 コーヒーの木は植物分類学上はアカネ科の常緑小木本または喬木で野生の場合、樹高は5~10メートルくらいに育つようである。栽培種は収穫の便宜も考えて2メートルくらいに刈り込んである。

 アラビカ種はもともとアビシニア今のエチオピアあたりが原産地で、リベリアを原産地とするリベリカ種、コンゴやウガンダあたりを原産地とするカネフォーラ種の亜種ロブスタ種をコーヒーの三原種という。

 栽培品種としてはアラビカ種とロブスタ種、その交配種のアラブスタ種、カトゥアイ種、ブルボン種などがある。

 コーヒーを飲むときいつも思うのは、コーヒーの生産国というのはいずれも発展途上国であってブラジル・インドなど一部の国を除くといずれも貧しい国だということである。

 毎日、酷暑の日が続きます。冷たいアイスコーヒーでも飲んで熱中症の予防をしましょう。
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誰一人  聴いたことない  天の声

2013年07月10日 16時34分08秒 | 日記
 高校を出てからほとんどは建設業界に身を置いている。
ほとんどはというのは3年間だけだが民間信用調査会社東京商工リサーチへ勤めたことがあるからだ。

 学校を出て最初に就職したのは当時大阪に本社があった中堅ゼネコンの東京支社で、主に経理の仕事をした。その会社は当時業績を急激に伸ばしていたが実情は苦しくて半ば粉飾決算のようなこともしていた。

 学歴のない私は5年間勤めたときに大学新卒者の初任給が私の給料よりも多いことを知ってさっさと見切りをつけて辞めた。

 次に勤めたのは八重洲に本社があった大手企業の系列会社で、前の会社の工事課長だった人が工事部長になっていて面倒見てくれた。ところがこの会社の実態は長崎県の離島などで鋼製プールを作るのが本業でまったくのペーパーカンパニーだった。3ヶ月ほどで辞めたがこの間に社長の顔は一度も見たことがなかったし、常務という人と二、三度話しただけだった。

 次に勤めたのが大日本土木という岐阜市に本社があった中堅ゼネコンで東京支店の経理課へ採用されたのだが、実際の仕事は現場の事務だった。

 都下北多摩の茶畑の中にプレハブの事務所と飯場を建てて現場で寝泊りしながら小学校の新設工事現場で事務仕事をやった。私が23歳の頃である。

 その後、藤枝市で民間信用調査会社、所謂、興信所へ3年間勤め、28歳のときに静岡へ戻って地元の建設会社へ就職した。

 ここの会社では営業を担当したが、主な仕事は”話し合い”であった。当時はほとんどの工事落札者を談合で決めていたから仕事はけっこう多忙であった。

 あるとき堰堤工事の談合が決裂して本来あるべき競争入札になったことがあった。その入札では最低入札者と2番札は最低制限価格を下回って失格し、私が入れた3番札に落札したのだが、発注者の県土木事務所長が烈火のごとく怒って私を詰問してきた。発注者が想定していた業者と違う業者が落札し、しかも金額が予定価格より1割以上も安かった所為である。

 公共工事には会計検査院による会計検査というのが付き物である。ある工事だけがずば抜けて低価格だと、他の工事価格が高すぎるのではないかという指摘を受けるようである。

 入札参加業者の生殺与奪の権は自分が握っているんだと豪語していた県土木事務所長は散々に私を詰ったが、最後に私が「これまでの所長さんのお話はすべて県会議員の先生に報告して議会でとりあげていただきます」と開き直ると、「誰に報告するんだ」と問い詰めてきた。

 私が「共産党でも社会党でも自民党でも県会議員の一人や二人は存じ上げていますが、競争入札をまともにやった業者が不利益を被るという話だから共産党あたりが一番喜ぶんじゃないでしょうか」というと、県土木事務所長は途端に顔面蒼白になってがたがた震えだした。役人なんていう人種は所詮こんな程度の人間が多いもので、弱いと見れば嵩にかかっていたぶってくるが、自分より強い権力にはまるで意気地がないのである。

 その所長は「申し訳ない。自分が言い過ぎたかもしれない。しかし、会計検査のことだけは理解してもらいたい」などと一転して低姿勢になり、最後に「私が所長でいる限りアンタのところを干すようなことは絶対にしないから安心して欲しい」などと擦り寄ってきた。事実この所長が在任中は指名件数も契約件数も飛躍的に伸びた。

 あるときの入札ではこんなハプニングもあった。市役所が発注した建築の物件だったが本命の業者が入札金額を一桁少なく書いて失格してしまったのである。

 前日行われた談合で私と最後まで話し合いをして無理やり仕事を持っていった業者が8100万円と書くべきところを810万円と書いてしまったのである。残った業者の入札金額はいずれも予定価格に達していないので再入札ということになった。

 さあ、大変である。私は入札会場の隅っこへ入札参加メンバー全員を呼び集めてこう言った。「この仕事は元々私が強く希望した物件です。私に譲ってください」と。15社の指名業者の中には大手ゼネコンも2社入っていたが一も二もなく応諾してくれた。

 二回目の入札では8000万円で応札した私が落札した。もう35年も前のことであるから談合罪も時効である。

 これは余談だが、当時も「天の声」というのがときどき降りてきた。しかし「天の声」を直接聴いた人はいなくて、必ず談合の元締めからまことしやかに伝えられるのが通例であった。

 発注者や権力者が露骨に受注業者を指名するなどということはそうそうあることではないだろう。昔も今も「天の声」は談合の元締めが都合よく発しているのではないかと私は考えている。
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暑気あたり  頭の中が  空っぽだ

2013年07月10日 10時21分28秒 | 日記
梅雨が明けた途端に30度を越す猛暑で老人はぐったりしている。

昨日の朝には今年になって初めてのニイニイゼミの鳴き声を聴いた。静岡あたりでは「石蝉・いしぜんみ」と呼ぶ比較的小型の蝉である。因みに静岡弁では蝉は「せんみ」と発音する。

昨夜、水を飲みすぎた所為か、今日は朝から下痢気味で昼までに四回ほどトイレに駆け込んだ。幸いにも洩らさずに済んだからよかったが間に合わなかったら大変なことになる。

元来、私は尻の締まりが悪いほうで、洩らしてしまったことも過去には何度もある。

一度は韓国からの帰りに名古屋空港で急に便意を催してきてトイレに駆け込んだのであるが少しちびってしまっていた。キムチなどの辛いものを食い過ぎると往々にしてこのような事態になるから注意しなければならない。

こうした場合には仕方がないからパンツは脱ぎ捨ててしまう。ステテコだけでも残せれば問題ないのだが、この名古屋のときはステテコにも黄色く染み付いていたから、ステテコも脱ぎ捨てた。こうなるとズボンの中はすっぽんぽんの状態だから極めて頼りないのである。

私の臭い汚物のついたパンツとステテコはビニール袋に詰めて空港のゴミ箱へ捨てたのだが、清掃員の方にはさぞかしご迷惑をお掛けしたことであろう。

中学生だったころの話である。
確か水永という直ぐに暴力を振るう教師の授業だったから数学の時間の出来事だった。
授業は終盤にかかっていたからもう少しの辛抱だったのであるが、襲い来る便意に堪え切れずに、手を上げて「先生。すいません。腹が痛くて我慢できません」と、告げると同時に席を立って便所へ急いだのであるが、無惨にも大量の大便を洩らしてしまったのである。

このときは学校の近くの池まで直行して糞に塗れた下半身を洗うと同時にズボンも洗ったのだが糞臭ぷんぷんとしてどうにもならなかった。青く澄んだ池の水や蒲の穂が揺れていた情景は今でも昨日のことのように憶えているから不思議だ。

濡れたズボンを穿いて職員室へ行き、事情を説明して、その日は早退して帰宅したのだが、自転車で走る4キロほどの通学路もずっと糞臭を漂わせていた。

毎日、毎日、飯を食っては糞を垂れる。人生はなどと難しいことを言っても、所詮は食っては垂れるの繰り返しであたら66年も過ごしてしまった。 嗚呼、やんぬるかな。
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公が 前科前歴 証明す

2013年07月09日 15時42分17秒 | 日記
世の中はすべて資格がものをいう。いまや資格なしで出来るのは箒と塵取りでする清掃作業くらいのものだろう。

私も1級土木施工管理技士の資格をもっていたために今の会社の主任技術者として採用された経緯がある。

今は事務所の留守居役として鼻毛を抜いたり、居眠りをしたりの恵まれた境遇であるが、現役のころは土木会社の現場監督として大いに活躍したものだ。

土木施工管理技士は工事の工程管理・品質管理・出来形管理・安全管理などを行うのが職務であり、多くの場合は現場代理人を兼ねているから発注者と会社との交渉窓口ともなっている。

私の場合は、土木施工管理技士と特殊無線技士が国家資格で、地山掘削土留め支保工作業主任者、足場組立て解体作業主任者、型枠支保工作業主任者などは建設業労働災害防止協会から付与された資格であり、コンクリート破砕器作業主任者と火薬類取扱補助作業者の資格は全国火薬保安協会が所管する資格である。

土木工事を安全に作業するためには、これらの資格が必須であるために面白くもない講習を受けて取得した。
私自身も建災防のこうした講習の講師を長く務めていた関係で建災防支部長表彰を二度も受けている。誰にでもわかりやすい講習とするためにほとんどは試験の答えを教えるのであるが、それでも合格できない人は居残りをさせて無理やり合格させたものである。

さて、会社の職人採用も私の職掌のうちだから、面接をしたり経歴を尋ねたりするのだが、最近の事例として、こんなことがあった。

新規採用したM君(30歳)は、鳶職の経験は浅いものの、小型移動式クレーン、玉掛け、アーク溶接、ガス溶接、2級ボイラー技士、危険物取扱者免状、感電防止特別教育修了証、高所作業特別教育修了証など幾つもの資格を持っている。

ところが、静岡県静岡市が本籍地のM君の資格者証に記載されている現住所がいけない。

東京都八王子市緑町670番地は多摩少年院、埼玉県川越市大字南大塚1508番地は川越少年刑務所の所在地である。

わが社の場合は前科前歴を問わないのがポリシーだから少年院でも刑務所でも一向にかまわないのだが、資格者証は多くの場合、仕事先へコピーを提出しなければならない。せっかくの資格を証明する書類が少年院や刑務所にいた服役証明になってしまっているのである。

法務省矯正局のお偉いさん方にお願いすることができるのであれば、受刑者の資格取得時の住所を本籍地、あるいは身元引受人の住所など前科前歴に直結しない住所にできないものだろうかとつくづく思う次第である。


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母親が  作る子供の  前科かな

2013年07月09日 15時38分17秒 | 日記
B君(17歳)は中学を卒業してすぐに地元の企業に就職した。職種は土木作業員いわゆる土方である。

柔道部に所属し、体育が唯一得意科目のB君ではあったが15歳の少年にとって土木作業員は過酷な労働であったろう。

わずか4ヶ月でこの仕事を辞めて次に派遣会社へ勤めたが、経営が不安定な会社で約束した賃金は支払ってもらえずに、この会社も5ヶ月あまりで辞めた。

次に勤めた電気工事店は12月に入社して翌1月には辞めたから、実質的な電工の仕事はほとんどしていない。

電気工事店を辞めた理由は盗んだバイクを無免許運転して捕まったからである。

B君は他にも窃盗罪などの余罪があったし、既に補導歴もあったから鑑別所から少年院送致となった。

B君は、1年6ヶ月に及ぶ少年院生活の中で、ガス溶接、玉掛け、小型移動クレーン運転、危険物取扱者、小型車両系建設機械、フォークリフト運転など幾つかの技能講習を受けて資格を取得した。

17歳の少年としては、資格をたくさん持っているほうであるが、実際に働いていたわけではないから今のところはペーパードライバーといったところである。

さて、前科・前歴を問わないのがポリシーの我が社としては、法務省保護観察所が身元を保証しているB君を採用することにしたのだが、ドロボウに給料を支払うわけにはゆかないからくれぐれも他人の物には手を出さないようにと釘を刺した。

会社には他にもこうした前科や前歴を持つ若者が在籍しているが、幾つかの共通点があることに気づく。

こうした少年たちの両親は離婚や別居をしていることが多い。特に母親は若くして本人たちを出産し、その後に離婚して別の男と再婚もしくは同棲したりしているケースが多い。つまり、低学歴、低所得で男にだらしのない母親に育てられた少年たちが非行に走り、出所後の働き口を求めてやってくるのである。

B君の場合も母親は内縁関係の男と同居しているのだが、狭い家に男の両親も同居していて肩身の狭い生活のようである。

前に雇ったC君などは母親の情夫が自分よりも3、4歳しか違わない若い男で、その男を殴って傷害罪で逮捕されたというから同情を通り越して滑稽でもあった。

世の母親にお願いしたい。女として人生を楽しむのも大いに結構だし、何人の男を銜えこもうとも勝手である。だが自分の生んだ子供だけは他人に迷惑をかけず愛情を持ってしっかり育てていただきたい。愛情は太陽の光と同じで注げば必ず相手に届くものです。

「犯罪の陰に女あり」という言葉もあるが、多くの非行少年の陰には必ずといっていいくらい淫奔な母親がいることだけは確かなようである。
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