日々是好舌

青柳新太郎のブログです。
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灰吹は 丸子の宿の 吐月峯

2016年11月25日 16時19分21秒 | 日記
 柴屋寺(さいおくじ)は、静岡県静岡市駿河区丸子にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は天柱山(てんちゅうざん)。雅号は吐月峰(とげっぽう)。本尊は十一面観音。


 この寺は、駿河国島田出身で今川義忠にも仕えた連歌師宗長(1448年 - 1532年)が永正元年(1504年)に結んだ草庵(柴屋軒)にはじまり、今川氏親が寺に改めたものと伝えられる。宗長は刀鍛冶・五条義助の出自で宗祇の高弟です。柴屋寺は江戸時代には江戸幕府から朱印状を与えられていた。

 吐月峰(とげっぽう)は、静岡市にある山の名で、連歌師 宗長がここに吐月峰柴屋軒を開き自ら移植した竹を使い竹細工をし、灰吹に吐月峰の焼印をして売られたため、吐月峰と書いて灰吹と読むほどになったといいます。


 灰吹(はいふき)は、茶道具の一つで、煙草盆の中に組み込み、煙草を煙管で吸い終えたとき火皿に残った灰を落とすための器です。


 通常物図解便覧(明治九1876年)には『唾壺 はいふき〔ダコ〕。器財(キザイ)の類(ルイ)にして、多(オホ)く竹(タケ)にて製(セイ)し、或(アルヒ)は青銅(セイドウ)にて造(ツク)るもあり。煙盤(タバコボン)に添(ソ)へ吸売(スイガラ)を入(イ)るる器(キ)なり』と、あります。


 灰吹は、茶席では通常竹が用いられ、正式には径一寸五六分の青竹を高さ四寸から四寸五分に切り、一回ごとに新しいものと取り替えますが、油抜きした白竹を用いることもあります。また、一度使った青竹をそのまま保存して名残の席に使うこともします。

 灰吹は、使うときに水洗いをしてから、中に少量の水を入れます。

 灰吹は、「煙壷」ともいいます。 向井震軒の『煙草考』に「烟壷 俗謂灰吹也。以棄烟燼、俗謂吸殻也。漢人此謂烟糞。且以吐唾。其器用唐金或瓷器。長三寸許、大一寸餘。其形容方圓不同。或用青竹筒。」とあります。 吐唾とありますから元来は痰壺も兼ねていたんでしょうね。

 『茶道筌蹄』に「灰吹 宗旦好、青竹は茶会に用ゆ、白竹は常に用ゆ」とあります。

 私はバブル崩壊後にリストラにあって失業し丸子にあった建設会社に一年間ばかりお世話になっていました。
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とろろ汁 自然薯擂って 作ります

2016年11月22日 17時25分14秒 | グルメ
 鞠子宿(まりこしゅく、まりこじゅく)は、東海道五十三次の20番目の宿場である。丸子とも書く。現在の静岡県静岡市駿河区丸子。

 東海道中でもっとも小さい宿場。天保14年(1843年)の記録によると、家の数は211軒、旅籠は24軒であったという。となりの岡部宿(藤枝市)との間の宇津ノ谷(静岡市駿河区)には昔の街並が残る。また、付近には源氏・今川氏・徳川氏ゆかりの史跡がのこる。名物はとろろ汁で、広重が描いた「丁子屋」で現在も食することができる。広重の鞠子宿の浮世絵はクロード・モネの連作「積みわら」に構図やグラデーションの使い方など影響を与えた。

 丁子屋の歴史は、今から400年ほど前の慶長元年にさかのぼれる。東海道五十三次の20番目の宿場「丸子宿」として栄えたこの地は、自然薯が成育して薬や食料として用いられ地元の人々の栄養源となっていた。



 1596年(慶長元年)この宿場町の茶屋として丁子屋平吉が【丁子屋】を開いた時から現在の当主13代目、柴山馨氏まで伝統の味は受け継がれてきた。店内は安藤広重の大作「東海道五十三次」が並ぶ大広間「広重」をはじめ、ゆかりのある人物の名前をつけた和室が広がる。看板料理は土つくりからこだわった、自然薯を使った滋味豊かな『とろろ汁』である。

 松尾芭蕉の『梅若菜丸子の宿のとろろ汁』の句は元禄4年正月、江戸に出発する門人乙州に与えた餞<はなむけ>の吟。この句を、発句として歌仙が巻かれた。句意は新春を迎えて梅も花咲き、川辺には水菜が青々と茂っている。駿河の国鞠子の宿のとろろ汁もおいしい季節を迎えていることだろう。

 乙州の旅立ちへの激励が込められた餞の吟。餞別吟として古来最高の句ではないだろうか。土芳の『三冊子』には芭蕉の言葉として、「工みて云へる句にあらず。ふといひて、宣しとあとにてしりたる句なり。梅、若菜と興じて、鞠子の宿には、といひはなして当てたる一体なり」と記されている。作者自身もどうしてこの句が脳裏に湧いたか分からないと言いたいようである。

 山芋の葉が黄葉してそろそろ自然薯掘りの季節になった。私が元気だったころには自然薯掘りやとろろ汁を作ることを最も得意としていたのである。
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安倍川の餅は石部屋吉五郎

2016年11月22日 16時09分55秒 | 日記
 私が住んでいる静岡市葵区桜町というところは安倍川の河口から丁度八キロ上流の左岸に位置する。蛇足だが川の左岸というのは上流から下流を見て左側ということである。

 安倍川は山梨と静岡の県境、大谷嶺、八紘嶺に源を発し、途中で安倍山脈(富士川との分水嶺)と白峯山脈(大井川との分水嶺)から流れ出る多くの中小河川と合流して駿河湾へと注ぐ全長五三キロメートル余りの一級河川である。川の長さに比べて標高差が大きいこの川は姫川や常願寺川に続く日本屈指の急流でもある。流域に人口密集地が無く、水系に一基の貯水ダムも無いので水質も良く清流として常に高ランクに評価されている。

 源流の一つ大谷嶺(標高二〇〇〇m)の南斜面は「大谷崩れ」と呼ばれ、長野県小谷村の「稗田山崩れ」、富山県立山連峰の「鳶山崩れ」とともに日本三大崩れと言われる大規模な崩壊地である。

 静岡市街は安倍川のデルタ地帯に開けた都市で「登呂遺跡」は弥生時代の大規模な稲作遺跡であり、万葉集の歌に残る「安倍の市」の昔から交易や交通の要衝として栄えた歴史を持っている。そして、安倍川や静岡のことはよく知らないまでも「安倍川餅」の名によって広く人口に膾炙しているのである。

 安倍川餅は、「名物に美味いものなし」などという俚諺を吹き飛ばすほどに味が良く、諸国の名物番付ではいつも大関格の名物であった。

 安倍川餅の由来は口碑によれば遠く慶長の昔にさかのぼる。徳川家康公が天下の権を握ったのち、駿府城にあって幕府三〇〇年の基を築いた時代、家康公は安倍郡井川村笹山金山を御用金山とし、海野弥兵衛を奉行として盛んに金鉱を採掘させた。この山は大日嶺に連なる高山で、山中に小屋を建て、何千人となく坑夫を送り込み、数年間働かせたので、坑夫を慰めるため駿府二丁町の遊女を出稼ぎさせたほどである。笹山金山からは四斗樽三〇〇杯ほどの収穫を得たが、あるとき家康公がこの鉱山を検分に出向いた際、ある男が餅を搗き、豆の粉を塗して献上した。食べてみると非常に美味かったので大層喜んで、献上した男を招き寄せ、餅の製法を訊ねたところ、その男は、「この餅は当金山から産出する金の粉が、安倍川へ流れるのを掬い上げ、餅にまぶして作るので、金な粉餅と申します」と即座に答えたので、家康公はその奇知を賞し、男に褒美を与え、改めて安倍川餅と命名したと伝えられる。

 また一説に、慶長のころ、弥勒町にあった弥勒院の山伏が、ふとしたことから駿府二丁町の遊女に迷い、とうとう法師の勘気をうけて破門されたので、還俗して源右衛門と称し、安倍川原で餅をひさいだのが初めだとも伝えられている。

 しかし、安倍川餅の起源の本当のところは五郎右衛門餅であろうとされている。五郎右衛門餅は安倍川向こうの鞠子にあったもので、附近の東新田の米で作り、なかなか風味がよかった。公卿衆なども江戸下向の往き還りには必ず五郎右衛門方へ立ち寄って餅を食べ、京にも稀な美味い味であると讃めたという。


現在の安倍川餅、つまり黄な粉に砂糖を添えたものは、殖産を奨励した八代将軍吉宗公の頃に駿府近郊でも砂糖黍の栽培が盛んになってからだとされ、吉宗公も安倍川餅をことのほか好んだそうである。

 因みに、現在も弥勒町にある安倍川餅の老舗「石部屋」の創業は文化元年(一八〇四年)であり徳川十一代将軍家斉の治世である。

 蛇足であるが、石部屋吉五郎こと橋本岩吉は文化11年(1814年)生まれ、安東屋辰五郎の若衆で28人衆の一人、安東一家貸元であったことが知られている。この吉五郎は多分二代目ではないかと思われます。
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成績はぼちぼちでした俳句会

2016年11月06日 08時31分10秒 | 日記
 もう10年以上も前のことになりますが私は秋山白兎(ハクト)という俳号で日本伝統俳句協会のネット句会に参加していました。

 これが意外に成績が良くて初心者の私にとってはすごくうれしくて句作に励んだものでした。そのころの作品はホームページ『秋山白兎俳句館』に掲載してあります。

 今回、友人の芸術家・おじゃらりんごさんにお願いして墨書していただきましたのでご披露します。



【日本伝統俳句協会19年2月・坊城俊樹氏選】



【日本伝統俳句協会・山本素竹氏選評】

 誰を待つかによって読者の楽しみ方がかなり変ってくるのですが、それは置いといて。
花とは関係のない待ち合わせのようです。その場所にたまたま夕桜。本来なら人を待ったりするのは好みませんが、今日はできるだけ遅れてきてもらいたいくらい…。人を待つという揺れる心を通して、夕桜が美しく描かれています。
 片とき…と軽く、楽し…と言わず愉し、そして夕桜でなく…夕ざくら…。気持の行き届いた句です。ベテランと思いますが、いやみのない叙しぶりに好感が持てます。ステキな女性が目に浮かびます。 



【日本伝統俳句協会19年8月山田弘子氏選】



【日本伝統俳句協会20年5月・奥村里氏選】



【日本伝統俳句協会・岩岡中正氏選評】

 風鈴にかすかな風が来てふれたという、きわめて繊細な情景なのだが、表現は、その思いの丈(たけ)を一気に吐露して力強いものがある。「誰が魂魄ぞ」に切々たる思いがこもっていて、作者の脳裏には誰か具体的に忘れ得ぬ故人や遠方の人がいるにちがいない。その思いの丈は、風鈴「に」と軽く抑えて、「触るゝは」と静かに展開して、「誰が魂魄ぞ」と高らかに宣言する、一句のドラマティックなしらべにも十分現われている。思いが深ければ、しらべもおのずと、これに沿うものなのである。
 この句の楽しさは、従来の「風鈴」の季題一般の趣きを、さらに拡大した点にある。つまり、これまで「風鈴」といえば軒端に吊って季節感を楽しむところに情趣の中心があったが、この句では、風鈴の風を通して思う人の魂が伝わるという、一種のコミュニケーションとしての風鈴の情が詠まれている。
 季題の幅を広く広く試みることがいま必要であり、これこそが写生の本義である。それにしても、この句の「触るゝは誰が魂魄ぞ」と言い放つ元気と若々しさを、心からうらやましいと思う。



【日本伝統俳句協会・大輪靖宏氏選】



【日本伝統俳句協会・栗林眞知子氏選】


日本伝統俳句協会はその後、ネット句会を閉鎖してしまったので残念です。最近では現代俳句協会に入会していますが成績は極めて低調です。
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しぐるるや石箕鶴嘴猫車

2016年11月03日 15時49分58秒 | 日記
 土方俳人を標榜する小生としては工事現場を題材とした俳句が多いのは当然である。

 表題の句は現代俳句協会のインターネット会句会へ投句して2ポイントをいただいた。1000句に余る句の中から選んでいただいたのであるからありがたいことである。

 一句の季語は「しぐれ」であり季節は冬である。

 風景としては、俄かに「しぐれ」てきたので大事な道具をそのままにして軒下へ雨宿りに駆け込んだのである。

 石箕は「いしみ」で竹で編んだ箕であるが近年では合成樹脂製のものが多い。


 鶴嘴は「つるはし」であり堅い土を掘り起こすときなどに用いる鉄製の工具。鶴の嘴 (くちばし) のように両先端をとがらせ、木の柄をつけたもの。つるのはし。現場では「つるっぱし」と呼ぶことが多い。俗に「ツルスコ3丁の小土方」などというようにスコップと並ぶ代表的な土工の手道具である。


鶴嘴に石跳ね返る冬はじめ          白兎  季語「冬はじめ・・冬」

鶴嘴を提げて九字切る油照り        白兎  季語「油照り・・・夏」

 蛇足だが九字を切るとは「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」の「九字印契・くじいんけい」で護身の秘法である。

 猫車は「ねこぐるま」であるが更に略して「ねこ」とも呼ぶ。一輪車の運搬具である。車輪が1つのものは孤輪車(こりんしゃ)または一輪運搬車という。また、単に一輪車ともいうが、乗車遊具の一輪車と区別するため工事用あるいは農作業用一輪車と呼ぶこともある。理由としては、猫のように狭いところに入ることが出来ることから来ているという説もあれば、また猫のようにゴロゴロと音を立てることを起因するとする説、裏返した姿が猫の丸まっている姿に似ているからとする説もある。ドイツでは手押し車を俗にKipp-Japaner (日本人) と呼ぶ。 


凩(こがらし)の殿(しんがり)を押す猫車   白兎  季語「凩・・・冬」

日雇の過去を焚火が炙り出す          白兎  季語「焚火・・・冬」
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