日々是好舌

青柳新太郎のブログです。
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黒俣の坂野集落大公孫樹

2021年03月17日 11時21分05秒 | 日記
【黒俣の大イチョウ】
静岡市街地から国道362号線を藁科川に沿って千頭方面に向かい、「きよさわ里の駅」を過ぎて少しすると、バス終点の「久能尾(きゅうのお)」というところがあります。尾崎商店とガソリンスタンドが目印です。ここを左に直進し、県道藤枝黒俣線を進みます。黒俣川の谷に沿って清笹峠へ向かう途中の坂野集落にある。

黒俣の大イチョウは、標高320m、茶畑の上の高台に一本だけ立つ大樹で、目通り8.3m、根回り13.30m、樹高20.0m、枝張東西17.0m、南北17.0m。推定樹齢500年。静岡県指定の天然記念物です。県内のイチョウでは屈指の巨木と言われています。
所在地
静岡市葵区黒俣字田島沢2184-2 ・2249
所有者
勝山博文氏、前田りん氏

閑話休題。
久能尾集落の次は、上和田集落で、戸平、中村、坂野、清笹峠と続く。
藁科川流域の谷筋は古来より重要な交通路であった。谷を遡り分水稜線を越える街道は商いの道、戦の道、そして信仰の道として賑わった。藁科川流域の谷は大きく開け、また分水稜線も比較的ゆったりした地形であるため、古代より自ずと交通路が開かれたのだろう。笹間峠で分水稜を越える道、いわゆる「笹間街道」は大井川流域に通じている。この道は東海道の裏街道として、また駿府から秋葉山への参詣道として賑わった。また、洗沢峠で分水稜を越える道は「川根街道」と呼ばれ、木材集積地としてその賑わいは江戸にも勝るといわれた川根地方に通じていた。武田信玄の侵略を受けた今川氏真はこの道を通って掛川城へ落ち延びていった。しかし時代が移り、人と物の流れが変化した今、これらの峠越えの道はすっかりその様相を変えた。
川根街道もまた、道筋を若干変えた上で国道362号線として今に余命を保っているものの、国道とは名ばかりの車も擦違えない狭いところもある道路であり、その重要性は昔と比ぶべくもない。旧川根街道の起点である昼居渡集落最上部の人家の裏手から、古道と思える一本の道が茶畑を突っ切って背後の尾根へ登っている。途中の八伏集落を経て洗沢に至るこの街道を明治の終わりまで毎日何百人という人々が往復したという。しかし、大正2年、蛇塚集落からいきなり谷筋に下りる車馬通行可能な新川根街道が開削されたことにより、峠道としての使命を終えた。この新川根街道が現在の国道362号線である。
旧清沢村の久能尾集落から黒俣川を遡り、上流の中村集落から支尾根を登って峠に達する道はいわば間道である。
この笹間峠は昭和10年代までにぎわった。毎日「持子」と呼ばれる荷運び人夫が数十人単位でこの峠を往復した。笹間からは茶、椎茸、繭が、久能尾からは生活用品が運ばれた。そして駿府方面からの秋葉山参詣の人々もこの峠を川根笹間へ越えた。昭和10年代に、すぐ隣の清笹峠に車馬通行可能な道路が開削されたことによりこの峠道は使命を終えた。
「黒俣の大イチョウ」は、樹齢500年ともいうから笹間街道の盛衰を見てきたのに違いない。
写真撮影は静岡市議・安竹信男氏。

コメント (2)
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この人が龍馬を斬った男です

2021年03月14日 09時43分46秒 | 日記
 今井 信郎(いまい のぶお、天保12年10月2日(1841年12月2日)、~ 大正7年(1918年)6月25日)は、江戸時代末期(幕末)から明治初期の武士(幕臣)、佐幕活動家、教育者、農事指導者、キリスト教活動家、政治家。
 今井は江戸に育ち、安政5年(1858年)、18歳で直心影流剣術の榊原鍵吉道場に入門、免許取得後講武所の師範代の任に就いた。慶応3年(1867年)5月、京都見廻組への入隊を拝命、衝鋒隊副隊長として佐幕活動を行い、同年11月15日に発生した近江屋事件に関わった。明治3年(1870年)2月、嫌疑をかけられ身柄を刑部省の伝馬町牢舎へ移され取り調べを受けた。今井は、龍馬暗殺の詳細を証言、自分は見張り役として参加し手は出していないことを語った。同年9月、禁固刑の判決を受け、静岡で謹慎後、明治5年(1872年)1月に赦免された。
 今井は静岡を生活の基盤にし、駿府城の跡地を入手、学校の経営を始めた。農業実習から兵事訓練にいたるまで広範に教授した。しかし、新政府にかつての履歴を危惧され、学校は後に無償で兵営用地として明け渡された。明治8年(1875年)、静岡県に出仕し、翌9年、静岡県の所轄下の八丈島へ赴任した。八丈島で教壇に立つ職員に、自らの理想や理念を伝えた。在島期間1年2ヶ月あまりだが、大賀郷小学校、樫立小学校が開設された。『八丈島誌』の「島の教育通史」のなかで、「静岡県吏今井信郎氏が来島、学制の改革を行い、教員を啓蒙し学校教育を進展させた」と、今井の功績を称賛している。
 明治11年(1878年)、大井川南方の牧ノ原一帯の開墾地域である旧榛原郡初倉村(現・静岡県島田市)に入植、農耕生活に移行するとともに、キリスト教に帰依した。島田へのキリスト教伝来は明治20年(1887年)とされており、カナダ人宣教師のF.A.カシディが、島田町長らの歓迎のもと、静岡教会から島田在住の信者宅を訪問したことがその起点となった。今井の洗礼時期は不明だが、日本メソジスト教会監督の平岩愃保から洗礼を受けている。

 明治14年(1881年)、信仰生活を送るかたわら、農事改良を推進するため榛原郡農事会会長に就任した。明治28年(1895年)、榛原郡農会と改称されたが、明治34年(1901年)までの20年間、会長職を勤めた。明治34年(1901年)、学務委員就任、入植地の初倉尋常小学校の教育に関わった。明治22年(1889年)より3回、村会議員に当選、明治39年(1906年)から3年間、初倉村長を勤めた。

 慶応2年(1866年)の春、岩鼻代官所から招聘され1ヵ年の契約で赴任、剣道師範に携わっていたが、翌年の慶応3年(1867年)5月、江戸で京都見廻組への入隊を拝命、同年10月に着京した。そして、選抜され京都見廻組与力頭となり、今出あたりに旅宿を構えていたが、その腕前はたちまち組じゅうに知られ、新選組では服部武雄、見廻組では今井信郎と並称されるようになった。今井は、京都で公務に邁進する過程で、ほどなく坂本龍馬暗殺事件に関わることになる。
 慶応3年(1867年)11月15日朝、桑名藩士で見廻組の一員である渡辺吉太郎が今井の寓居を訪ねてきた。二人でなにかヒソヒソ話していたが、やがて今井は、蓑をつけ、竹の小笠をかぶり、地面に引きずるような朱鞘の長刀をさし、妻いわに「ちょっと行ってくるよ」と言い、渡辺と連れ立って出かけた。その日は朝来の曇り空で、時々しぐれ雨が寒々と降り過ぎるような天気であった。妻いわは、今井の扮装を見て、てっきり斬込みに行くものと思い、不安な思いで待っていたが、遂にその夜は帰ってこない。翌日になっても姿を見せない。殺されたものなら、誰かが知らせてくれるだろうと度胸を定めていたところ、今井は、懐ろ手をしてブラリと帰ってきた。無言のまま部屋の隅に行き、後向きになって何かコソコソしている。ソッと覗いてみると右手の包帯をとき、焼酎か何かで消毒している。「どうしてお怪我なさったのか」と訊くと、「よけいなことをきくに及ばん」と叱りつけ、ひどく不機嫌である。そのまま黙って捨てておくより外なかった。
 話によれば、坂本龍馬が越前の松平春嶽に会って帰って以来、見廻組で彼の身辺を監視していると、しきりに何か策謀しているらしい。捨ておいては何をするか判らない、斬ってしまえという守護職の命で、佐々木唯三郎がその衛にあたる事になった。慶応3年(1867年)11月15日、龍馬暗殺の当日、佐々木唯三郎の下には、今井信郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之介、土肥仲蔵、桜井大三郎の6名、連れ立って坂本の宿屋附近までやってきた。八ッ時(午後2時頃)、まず京都の与力の桂隼之介を先行させ、在宿の有無を探らせたところ、不在とのことで、一同しばらく東山辺で時をかせぎ、夜になるのを待った。五ッ時(午後8時)近く、四条大橋にさしかかったと時、丁度雨はやんでいたので、佐々木は一同に命じ、蓑笠を脱いで橋下に投げ捨て、各自の袂や懐中を探って、後日の証拠となるような品を投棄させた。そこで斬込み順番の籤を引くと、今井は第三番にあたったので、大不平でやりなおしを強要し、今度は第一番に中った。
 河原町三条下ル近江屋の前にくると、今井は単身先に立って、表戸を叩き、案内を乞うた。二階から取次におりてきたのは、以前雲井龍と称した相撲上がりの下僕藤吉である。これは海援隊書記長岡謙吉の僕であるが、警衛の意味をも兼ねて数日前から坂本につけてあった。今井は用意してきた手札を出し、「松代藩の者であるが才谷先生はお在宿か」と尋ねると、「一寸お待ちください」と云って藤吉は手札をもち、二階へ上がろうとする。お待ちくださいとゆうからには、在宿に決まっていると思ったので、階段を上がりかけた藤吉を、いきなり背後から抜打ちに斬り倒した。そして刀を一旦鞘におさめて、何食わぬ顔をして二階へ上がっていった。二階八畳の間には、火鉢を囲んで二人の武士が話しをしていた。どちらが坂本か、全然顔を知らないので咄嗟の機転で部屋に入るなり膝をつき、「坂本先生、しばらく」と挨拶し、左手で鯉口を切りながら膝行り寄った。坂本は、「どなたでしたかな」と言って、顔をさしよせるようにした。瞬間、今井の刀は掛声と共に鞘走って、坂本の脳天を横に拂った。右手にいた中岡は、脇差をもって立ち上がろうとした。そこを今井は立ち上がりざまに斬りつけた。中岡は脇差を抜く暇なく、鞘ごと両手で頭上に捧げるようにして受けたが、受けきれなかった。今井は、叩きつけるように数刀を浴びせ、中岡を斬り伏せた。その間に、坂本は背後にあった太刀をとり、既にヨロヨロしながら、引き返して来ようとしていた。それと見て今井は、踏み込むなり肩先から大袈裟に斬った。その時坂本は、何ともいえぬ悲惨な、泣くような悲鳴をあげたので、「この意気地なし奴」、叱咤しながら又一太刀横に拂った、坂本が提げていた刀の鞘を削り、腰のあたりに斬りつけた。部屋に入ってからほんの二、三分の間の出来事である。
 ある朝早く妻いわの寝ているうちに帰ってくるなり、「これからすぐお前だけ江戸へ帰れ。早く荷拵えしろ、俺も手伝ってやる」と急ぎたて支度させた。その時、長刀と一通の褒状を妻いわに與へ「これでもって俺が坂本と中岡とを斬った。榊原先生にお目にかけてくれ。これは守護職から賜った褒状だ」といって、はじめて真相をうちあけた。
「父は小太刀の名人であったという定評になっているようだが、それは何かの間違いで、いつも引きずるような長刀を好んで差していた。しかも古刀は駄目だ、新刀の重いやつに限ると言っていた。坂本を斬ったのも新刀の長いやつで、天井につかえて困ったそうだ。それを母が持って帰る時に、縦にしては籠に入らず、斜めにして持ってきたというから、よほど長かったらしい。(信郎三男で衆議院議員・農林参与官・商工政務次官・文部政務次官を歴任した今井健彦氏談。)
 慶応4年(1868年)1月、鳥羽・伏見の戦いに敗れた後、今井は、江戸に戻ると、幕府陸軍の訓練を担当していた古屋佐久左衛門と共に、脱走した幕府歩兵の鎮撫に当たり、後に組織された衝鋒隊の副隊長となり、戊辰戦争においては最後の箱館戦争まで戦い抜いた。
その後、明治42年(1909年)12月17日、大阪新報記者和田天華の質問に対し、今井は、ようやく事実を話した。
1、暗殺に非ず、幕府の命令に依り、職務を以捕縛に向、格闘したるなり。
2、新選組と関係なし。予は当時見廻組与力頭なりし。
3、彼会て伏見に於いて、同心3名を銃撃し、逸走したる間罪の為なり。
4、場所は、京都蛸薬師角、近江屋という醤油屋の二階なり。
今井は、当時の政権を握る徳川幕府の命令によって行動したということに、確呼たる信念を有していた。それを、次いで政権を握った者の前に真相を明らかにし、極刑を処されるのは愚の至であるといった。
 大正5年(1916年)、今井信郎は脳卒中で倒れ、2年間の病床生活の後、大正7年(1918年)6月25日、死去した、行年78歳、法名は「隆徳院殿信慶了義居士」。妻いわは、その1年半後、大正9年(1920年)1月25日、死去した、行年77歳、法名は「最勝院殿信屋知照大姉」。東京都文京区白山の法輪山寂圓寺には、父今井守胤、妻きね、今井信郎、妻いわ、信郎長女りう、三女つるの墓碑がある。
本稿は、ウイキペディアの記事から抜粋編集しました。写真は鈴木勲さん撮影。
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弥次喜多の作家は駿府生まれです

2021年03月06日 14時46分49秒 | 日記
十返舎 一九(じっぺんしゃいっく)明和2年(1765年) ~ 天保2年8月7日(1831年9月12日))は、江戸時代後期の戯作者、絵師。日本で最初に、文筆のみで自活した。『東海道中膝栗毛』の作者として知られる。

駿河国府中(駿府:現在の静岡市葵区)で町奉行の同心の子として生まれた。葵区両替町一丁目に、生誕の地の碑が建っている。本名は重田貞一(しげた さだかつ)、幼名は市九。通称に与七、幾五郎があった。酔翁、十返舎などと号す。
江戸に出て武家奉公をし、天明3年(1783年)(19歳)、大坂へ移り、大坂町奉行・小田切直年に勤仕したが、ほどなく浪人し、義太夫語りの家に寄食し、浄瑠璃作者となった、また、志野流の香道を学んだ。寛政元年(1789年)(25歳)、『近松与七』の名前で、浄瑠璃『木下蔭狭間合戦』(このしたかげはざまがつせん)を合作した。
寛政6年(1794年)(30歳)、江戸へ戻り、通油町(現在の中央区日本橋大伝馬町)の版元・蔦屋重三郎方に寄食して、用紙の加工や挿絵描きなどを手伝った。寛政7年(1795年)、蔦屋に勧められて黄表紙『心学時計草』ほか2部を出版し、以降は生活のため、20年以上にわたり、毎年20部前後の新作を書き続けた。一九は文才にくわえ絵心があり、文章だけでなく挿絵も自分で描き、版下も書くという、版元に便利な作者であった。狂言、謡曲、浄瑠璃、歌舞伎、落語、川柳などに詳しく、狂歌を寛永期に修業し、それらを作品の素材にした。享和2年(1802年)に出した『東海道中膝栗毛』が大ヒットして、一躍流行作家となった。当時の生活について「最近ではいつも出版元から係の人がきて、机の横で原稿ができあがるのを待ってます」と、現代にも通じる作家生活を描写している。
文政5年(1822年)までの21年間、次々と『膝栗毛』の続編を書き継ぎ、頻繁に取材旅行に出かけ、山東京伝、式亭三馬、曲亭馬琴、鈴木牧之らとも交わった。また並行して出した『方言修行 金草鞋』(むだしゅぎょうかねのわらじ)も広く読まれた。
辞世の句は「此世をば どりやおいとまに せん香と ともにつひには 灰左様なら 」。
浅草の東陽院に葬られた。『心月院一九日光信士』。墓碑は、東京都中央区勝どき四丁目に移転した同院に残る。

天保3年(1832年)、遺族・門弟らによって、長命寺に建てられた記念碑が、今も残る。また、静岡市葵区研屋町(とぎやちょう)の医王山顕光院には重田一族の墓が建ち、一九の戒名が刻まれている。
名香「黄熱香」は十度焚いても香を失わないところから、「十返しの香」とも呼ばれる。後の筆名「十返舎」はここから、「一九」は幼名の市九から来ている。初めは十遍舎一九であったが、十偏舎、十偏斎、重田一九斎なども用い、享和ころから十返舎一九に定まった。
父親が元八王子千人同心の重田与八郎の次男であるため、墓石や過去帳には元八王子千人同心の子と記載されている。本文の出典はウイキペディア。写真は伊藤彰氏撮影。

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